昔遊びと悪ガキ

キラキラとした別世界。・・・今考えると、これほど外の世界が魅力的に感じた時代はなかった。

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とんま天狗

2007.08.29 (Wed)

小学3年生の秋の頃であった。級友のヨシカズという子が、白い包帯で頭をグルグル巻きにして現れた。驚いたT先生がわけを訊くと、「とんま天狗」の真似をして転んでしまったのだという。眉間に皺をよせてヨシカズを覗いていた先生は、思わずのけ反って笑った。

「とんま天狗」。・・・ボクはそれを知らなかった。
隣接している村であっても、電波が届く届かないでは、子どもの間の話題がこうも合わなくなる。たかだか2キロである。
だが、2キロの距離が重要でなく、地形的に電波が届くか、山に遮られるかが問題であったことが後で分かった。

ヨシカズの住む高原の村は、標高的には高いところにあるが、電波を遮る高い山は殆どなかった。それに比べ、ボクの村は谷の底にあるようなものだから、いくら屋根の上にアンテナを立てても、電波など届く筈がなかった。だから、何百メートルものコードを引っ張っていって、裏山の山頂に立てていた。

それでも日本海テレビ(鳥取の局)とNHKの、2局だけであったし、台風や吹雪きの影響で、アンテナの向きが少しでもズレると、致命的なノイズが入り、画面が波立った。

当時、ボクたちの話題の中心は「まぼろし探偵」、「鉄人28号」、「ポパイ」であったが、ボクの村より3局ほど余分に電波が届くヨシカズの村では「とんま天狗」、「番頭はんと丁稚どん」、「ローン・レンジャー」、「ララミー牧場」、「少年探偵団」と、ボクの知らない多くの番組がもっぱらの話題で、その方面ではついて行けなかった。


とんとんとんまの 天狗さん 
とんまで オセンチ お人好し
にぎる刀は 大上段 
エイッ 悪人どもを なぎはらう
姓は尾呂内  名は南公 
子供が大好き ぼくらの仲間
とんとんとんまの 天狗さん

(ちなみに主人公の名前「尾呂内南公」は、「とんま天狗」のスポンサーの商品名「オロナイン○○○」からつけられたものだ)

ヨシカズたちが、いくら「とんま天狗」の真似をしようが、あの十円禿の丁稚どんの話しをされても、一向に分からなかったのである。

テレビ番組のことはさておき、T先生を笑わせたヨシカズの話しはこうである。
同じ村の悪ガキたちと「とんま天狗」ごっこをやっていた。主人公の「とんま天狗」役は誰がしたか知らないが、ヨシカズが斬られて倒れる役であったらしい。「とんま天狗」は明らかに「正義の味方」だから、彼は悪役であったのであろう。

彼は追い詰められて斬られた。そして、『や・ら・れ・た~!』と言って、その場に倒れる・・・振りをした。
倒れた場所が悪かった。不運にも尖った石があったのだ。
さあ、困った。村には産婆はいるが、傷口を縫う医者はいない。病院までは10キロはあるし、もちろん救急車があるわけがない。

まあ、昔の田舎はだいたいそのようなものであったから、毎日のように怪我をしていた我々ガキは、それくらいのことで病院に行くことは、まずなかった。
ともかく血止めをして赤チンをぬり、包帯を巻く。それが治療であり、それをすることで、子どもというものは安心するのだ。

余談であるが、僻地医療はおよそそういうアバウトなものであった。
怪我をすれば、とにかく赤チン。打ち身であればヨーチン。腹が痛ければ正露丸。山で怪我をすれば「よもぎ」の汁で消毒する。蜂に刺されれば小便を。と、だいたいそうだった。

常備薬はあったが、風邪薬や胃薬が主で、現代のような複雑でデリケートな病気も病名自体なかった。だから『体質に合せて・・・』みたいな分類もなければ、治療法もなかった。

ともあれヨシカズの後頭部の傷口は、パックリ開きっ放しで治癒した。後に残ったのは、三日月形に怪しく光る傷跡であった。そして、青白く光った月夜を見る度にヨシカズを思い出すのである。

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火振り漁

2007.07.21 (Sat)

後年聞いた話しだが、「盆に殺生すると祟りがある」と言うのがあった。しかし、ボクがその頃親から聞いたのは、「送り日の15日だけは殺生するな」であった。今となってはどっちだっていい話しだが、一般的に盆休みは13から15日の3日間取るが、正月のような祝日はない。

田舎を離れて長く、風習とか行事などにまったく縁がなくなった今、その意味合いさえ考えなくなった。だから盆が何故3日間あるのか気になってはいたものの、最近まで一度も調べることはなかった。ちなみに昔ボクの田舎では、13日に仏を迎える迎え日があり、15日に仏を送る送り日があって、その行事は川で行ったという記憶がある。

その時がきたら、川の石を仏壇代わりにして供物や花、線香を手向け、亡き家族の魂を迎え、そして15日に送るのだ。河原に立ち上る線香の煙は、もの悲しさを誘った。

大人たちは15日の送り日だけは、大人しく家でゴロゴロしていた。だが、ボクには貴重な3日間なのである。一刻も無駄に過ごせないのである。送り日など関係なく、大人たちの目を盗んでは川を荒らし廻った。川に祀られた仏さんを横目で見ながら、時間を惜しんで魚釣りやヤス漁に励むという、バチ当たりな生活をしていたのだ。

社会人になって30年。まともな盆を過したことがないのは、その「祟り」なのだろうか。


火振り漁

火振り漁は、火の灯りを怖がる魚(特に鮎)の習性を利用して、追い込む漁のことを言う。
夜、暗くなるのを待って、松明(たいまつ)に火をかけ、あらかじめ「網」を仕掛けた反対側から追い込んで、一網打尽にする。松明は、松の枯れ枝を使うとよく燃える。もっともボクたちには火篭のような上等なものはなく、直接枯れ枝に火をつけ、熱い目をしながらやっていたが。

また、松明の火と同時に、竹竿で水面を叩きながら進むと、より効果的だ。
★ 追い込みの最終段階で、網を持った両端から徐々に囲んでいくと、
  上手く捕獲できる。

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松葉漁

2007.06.21 (Thu)

隣町の寺の境内に一本だけ柳の木があった。魚が活性し始める夏になると、そっと忍び込んでその枝を数本頂き、松葉漁に使った。この寺、毎年同じ時期に訪れるワルガキを知ってか知らずか、一度も住職に怒られたことがなかった。

松葉漁に何故柳か、ボクにもよく分からないが、親の話しによれば、松葉にある独特な臭いを魚が嫌うのだと言う。だったら松葉漁ではなく柳漁と言えばいいのだが、どう言う訳か昔からそう呼ばれているらしい。
ともかくボクは色々試してみた。松の枝はもちろん、色々な木で試してみたが、何といっても松葉漁は柳の枝が一番効果があった。

松葉漁
「なで漁」で記したように、川に生える草を隠れ家にするという習性を利用した漁法。松葉漁であっても松葉でなければならないという訳ではない。要は魚の隠れ家になればいいのである。
仕掛けは簡単である。葉っぱを付けたままの柳の枝を束にして、流されないように紐で岩にくくりつけ、夕方仕掛ける。あくる早朝、タモで束ごとすくうだけだ。

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めだか捕り

2007.06.11 (Mon)

祭や縁日にある金魚すくいのようなセコイ遊びは、ボクたちはしなかった。というより、する必要がなかったのだ。
水面の鏡に青い空が映り、身を切るほどのせせらぎが緩む頃、川の中は、にわかに活気に満ちてくる。一体彼らはどこに身を潜めていたのかと思うほど、動く立体カラー図鑑になるのである。

そこにはタガメやゲンゴロウ、カワゲラ、アメンボ、ミズスマシ、ミズムシ、ヤゴ、ガムシ、ミズカマキリなどの昆虫がいて、おたまじゃくしやカエル、そして、タニシ、サワガニ、モクズガニがいる。
川の主人公でもあるアブラハヤ、ウグイ、オイカワ、ハヤ、フナ、鯉、カジカ、ドンコ、アユ、メダカ、アマゴ、イワナ、ニジマス、ヤマメ、ナマズ、ウナギ、ドジョウなど、多くの生物が共存していた。

もっとも、いくら動く立体カラー図鑑と言えども、年がら年中いるわけではないし、場所や水質、流れの速さや水温、そして季節で生息する種類が違った。

ボクの家の裏に清水の湧き出る池があって、そこから落差10mほど下の川に流れ落ちていた。その崖には野生の水菜が群生していて、時々我が家の食卓に上った。水菜はさておき、崖の下にちょうど1畳分くらいの窪みがあって、真っ黒になるくらい稚魚たちが固まっていることがあった。

崖の上の水菜の隙間から見えるそれは、巨大な黒いアメーバーみたいに、常にカタチを変え、無気味に身を捩った。それを見るとボクは、居ても立ってもいられなくなった。すぐに家に帰り、手拭いを手にしてそっと後ろ側から回り込んだ。

めだか捕り

魚の稚魚は、ごく浅い所にいる。ボクたちは「めだか捕り」と言っていたが、そうではなくハヤとかウグイなど川魚の稚魚であった。その稚魚たちは集団行動をとる習性があるので、手拭いを浸けて待ち構えていると集まってくる。そこを一網打尽にした。

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「ドードーブチ」とアメンボウ捕り

2007.06.04 (Mon)

そこは「ドードーブチ」と言った。
ドードーブチは、水がドードーと流れ落ちるから「ドードー淵」と言うのかどうかははっきりしないが、大人も子供たちも昔からそう呼んでいた。11戸の小さな村に寄り添うように川が流れ、それはちょうど、村の中ほどにあった。

ドードーブチは四畳半ほどの丸い壷型になっていて、滝の下は小学生の高学年でも足が届かないほど深くえぐれている。ドードーブチの上は、両側から大きな岩が迫り出し、V字型の水が勢いよく下の壷へ落ちていた。
ドードーと音をたてながら。 

岩の横には、大きな合歓の木が、青々と繁り、丸い壷にすっぽり蓋をしていた。合歓の木は梅雨が終わる頃、フワフワとした美しい桃色の花をつける。
そして、将太たちが夏休みに入る頃には花も落ち始め、川面に揺れながら、茶色い醜い塊となって、隅の方にプカプカと浮かんでいた。

将太たちの村にも、短い夏が始まった。
春来川の流れる谷あいも深い緑一色に覆われ、湿気を含んだ熱い空気が沈んだまま動かない。その春来川を挟み、萌葱色の鮮やかな絨毯が広がる。時折吹く風を受けて鳥避け用のビニルテープがキラキラと光り、その絨毯は、渦巻くように白くさざ波だっている。

萌葱色の絨毯の遥か向うには、やがて険しい深緑の山々に塞がれる。そこは、何人たりとも拒絶するかのような表情を見せていた。
白いさざ波が、ドードーブチを一気に飛び越えた。そして対岸に続く絨毯の上を走る。間髪入れず、深緑に葉音を鳴らしながら、山頂へ這い上がる。その後は微動だにしない熱い空気が支配した。

息がつまるほどの蒸し暑い叢の中で、虫たちの鳴き声のみが、せわしなく谷にこだましている。山々が幾重にも連なり、その向うは薄紫色に霞みがかっていた。向かい合う峰の上に、抜けるような逆三角形の空。その中に、天をも押し上げそうな勢いの、見事な入道雲が見下ろしていた。

アメンボウ捕り
ドードーブチの少し上流に地下水が湧いていた所があった。夏だというのにその一帯だけ極端に水が冷たく、シダやスギ苔の間からチョロチョロと湧いていた。アメンボウはそんなキレイな場所に何百何千といて、ボクたちが近付くと、一旦は蜘蛛の子を散らすように逃げるが、すぐ足下に寄って来た。

(音叉に集まるアメンボウ・・・ボクは、音叉でアメンボウを捕ったという記憶はない。そんな仕掛けの必要はなく、アメンボウなどどこでもいて、いつでも捕れたからである。ところが都会で暮らしていた友人が、小学校の理科の時間にやったことがあると言うので、ある日試してみた。不思議であった。何故こういうことになるのか分からないが、面白いように集まるのだ)

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クモの巣でセミ捕り

2007.05.30 (Wed)

奈良の百毫寺は、スゴイという他はない。あの田舎の小さな寺の何がスゴイのか。うまく説明できないが、境内に入った瞬間、それまでとまったく違う空気を感じるのだ。緑に包まれた田舎の古寺はいくらでもある。しかしそこは違う。

近鉄奈良駅を出てそのまま登大路を東へ真直ぐ。大仏殿を左手にして南へ。鷺池の浮御堂を右に見ながら、高畑まで約40分の道程だ。そのまま南へ行けば天理だが、高畑大道で更に東へ入る。その先は柳生街道に繋がる道であった。

緩やかな坂の途中に新薬師寺があり、参道の端で土偶が迎える。そこまで来ると急に道幅が狭くなる。新薬師寺から更に奥へ。古の寺内町の風情が色濃く残る百毫寺高砂町だ。

小高い山の入り口の、萩に覆われた細い石段を駆け上がり、山門を潜ると、古びた静かな御堂が見える。境内は狭い。地味な種類ではあるが丹念に手入れされた花々と、素朴な感じがする庭は、訪れた人の心を癒すべく絶妙なレイアウトになっている。しかも、ふる里をミニチュア判で切り取ったと思わせるほど自然で、よそよそしさをまったく感じさせなかった。

その百毫寺。夏ともなればそれはもう耳を塞ぎたくなるくらいの、セミの大合唱に包まれる。ひと気は全く感じない中でセミの鳴き声だけが耳の奥に反響し、異空間にでも紛れ込んだと錯角をするほどであった。

クモの巣でセミ捕りをする

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コウモリ落し

2007.05.28 (Mon)

温泉町で知られた隣町に中学校があった。その学校の近くに謎の洞穴があって、小さい頃、中学生に連れられてよく行った。昔、そこで鉱物を採掘したとか、防空壕だったとか色々と噂されていたが、確かに自然にできたものではなく、明らかに人間の手が入ったという形跡があった。

洞穴は数個あった。どの穴も30~40mほどで行き止まりで、とても鉱物が発見された穴とは見えなかった。
洞穴には、あの恐ろしい吸血動物・コウモリがたくさんいた。夜行性のコウモリは昼間、洞穴の天井が真っ黒になるほどぶら下がって死んだふりをしているが、夕方になると急に活動し始める。そこを待ち構えて攻撃したものだ。

よくこんな残酷な遊びをしたものだと、自分でも恐ろしくなることがあるが、 当時、吸血動物・コウモリは人間の敵で、退治しなければいけないと思い込んでいた。しかし、捕ってみるとこれがなかなか愛嬌のある顔をしていたのである。

中学生になって、そういう遊びはもうしなくなっていたのだが、夏休みの課題の昆虫採取で、こともあろうにその「コウモリ」を、誰かが展示していたのだ。小さな昆虫の類いは圧倒的に多かったが、そこだけ異様な雰囲気があった。展示された「コウモリ」に銀ハエがたかり、異臭を放っていた。

コウモリ落し
細長い竹竿で、群れで飛んでいるコウモリを狙い、竿先をピュッピュッと振ると、竿に当たったコウモリが落ちてきた。

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「ほたる」と遊ぶ

2007.05.25 (Fri)

小さな庭にきれいな水のせせらぎを流し、「ほたる」の宿というものを作ってみたい。そして夏の夕暮れにラムネを飲みながら「ほたる」と戯れ、黄金色に光ったその庭を蚊帳越しに眺めてみたい。

これがボクのささやかな夢の一つである。
何故そんなことを考えたのか。十数年前の初夏、岡山の矢掛に行った時だった。山道に入り木立を抜けると、「ほたる」の群れが辺りを黄色く染めていた。久しくなかったその幻想的な世界を生で見て感動した時、ふと思った。
そして、ボクが小さい頃あれだけいた「ほたる」が、どうして見られなくなったのかという思いがした。

「ほたる」と遊ぶ
「ほたる」は 手に触れると死ぬとてもデリケートな生き物だ。イナゴや蛙は残酷な扱いをしたボクだったが、この「ほたる」だけは別であった。 
「ほたる」の捕獲は、実を採った後の小豆の穂を束にして竹竿に結び付け、飛んでいるそれを巻き付けるようにして静かに捕った。
そして、そのまま裏庭の井戸の周辺に放ち、風流な初夏の夜を楽しんだ。

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笹舟と昭和33年

2007.04.12 (Thu)

水は透明で、どこのものでも飲めると信じて疑わなかった。しかし、それを見事に裏切ってくれた出来事があった。

昭和33年の夏、祖父に連れられて従兄弟のいる横浜へ旅立った。道中のことはまるで憶えていないが、蒸気機関車の黒煙が、トンネルに入る度に車内に充満して、夏の熱い日に窓が開けられなかったのと、大阪を通過する時、タールとドブが入り混じったような、強烈な臭いがして、慌てて窓を閉めたことだけは憶えている。

紅白の大きな煙突が林立した工場地帯から出た、真っ黒な煙りが空を覆い、街全体は無彩色の無気味な世界であった。後年、「赤ちゃんよ永遠に」という映画を観た時、あの時の真っ黒で不気味な大阪が蘇ったものである。

昭和33年という年は特別な年であった。
東京タワーが完成したのもこの年である。日清のチキンラーメンが発売されたのもそうであった。そして忘れられないのは、『昭和33年、栄光の巨人軍に入団以来、今日まで17年間、巨人並びに長嶋茂雄のために絶大なるご支援を・・・。我が巨人軍は永久に不滅です』と名言を残して引退した、国民的英雄・長嶋茂雄が、巨人軍に入団したのもこの年だった。

岩戸景気と呼ばれるものが始まったのもそうである。たとえば物価は、はがき5円、封書10円、ふろ代16円、理髪料金150円。で、大卒の初任給1万3000円である。そして、その頃の平均寿命は男性65歳、女性70歳と現在に比べてかなり短い。

そんな激動の時代の幕開けに関係なく、ボクはまだ小学校にも入っていない、“はな垂れ小僧“であった。
時代に取り残されたボクの村には、きれいな水の川や瀬が至る所にあった。どの水も手ですくって飲めるほどきれいであった。石や土で仕切られ、透明な水の底には鮮やかな緑の水草が生え、その中を悠々と魚が泳いでいた。手の届く所にである。

笹舟を作る・・・
(1) 笹の葉の両側4分の1づつを内側に折る。
(2) 笹の芯の両サイドに切り込みを入れる。
(3) それぞれ内側に、交差させるように差し込む。

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「山くずし」と猫。

2007.01.17 (Wed)

椎名誠氏の紀行小説の中に、シベリアの凍土を疾走する馬に、雲が纏っている、という話しがある。さすがに氷点下40度を下回る極寒の地だ。汗が皮膚から出た瞬間に氷結するとしても不思議ではない。それがあたかも雲を纏っているかのように見えたのだろう。

それに比べて日本は天国のようなものだ。だが、それでも古典的な笑い話に、「寒い日に立ちションすると、○○○から出た瞬間に凍り、道々に氷柱が立つ」という下世話がある。しかしボクは、そこまで極寒を味わったことがなかった。
寒い我が雪国といえども、たちどころに小便が凍るなどということはまずないが、吹雪の日に外に出るには、それなりの覚悟が要った。風速20メートル以上。視界2、3歩。横殴りというより、谷底から吹き上げるそれは立っていられないくらい強烈なものなのだ。もちろん息ができないから、そういう時は後ろ向きに歩くしかない。

今思えば「ひょっとしたら死んでいたかも知れない」と、ゾッとするようなことが何度もあった。山スキーで吹雪に遇い、寒さと空腹と睡魔が襲う。雪崩に危うく巻き込まれそうになる。親の遣いの帰りに道が見えなくなる。それは数え切れないくらいあった。今晴れていても、10分後にも晴れている保証はないのだ。

こういう日は、外に出るより大人しくコタツの中で「猫」になるのが無難であるが、ボクは室内にいることが苦手であった。どうも落ち着かない。家人が一緒とあれば尚更である。「昼間にグウタラ寝るな」とか、「することがないなら勉強しろ」などと言われるのがオチであったから。

そんな冬籠りの休みともなれば、大人の居場所がなくなるほど、四六時中ガキどもで占領された。その我が家には、誰一人ルールを知るものがいないのに、いつ頃からか将棋があった。で、将棋ができないからというので、「山くずし」なる遊びばかりしていた。ルールを知ったのはずっと後のことである。

山くずしで遊ぶ
(1) 将棋の駒を箱に入れ、箱ごと逆さにしてそっと抜く。
(2) 箱を抜いた状態でジャンケンの順番通り、一つずつ取っていく。
   (下から取っていくのがルール)
(3) もし途中で崩れたら、一回パス。
   最後の駒まで取っていき、取った駒の数で勝敗を決める。

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「雪の落とし穴」とストーブ革命。

2006.12.21 (Thu)

小学生生活最後の冬に、わが校にとってひとつの革命が起こった。それは同時に「悪ガキ」の楽しみが、ひとつ奪われたことでもあった。

田舎だから多少は都会に遅れて文明がやってくる。だから、同世代とあっても都会育ちとはズレは生じるものだ。「古いことをよく知っている」と言われる訳はそこにあるのだが、さすがに電気のない時代のことは知らない。ボクが生まれるずっと以前から電気のある暮らしをしていたし、物心つき始めた頃には、蛍光灯に切り替わり、洗濯機もあった。電気がそうであったからストーブだって同じことが言えた。

各教室の窓から突き出るL字型の煙突と、吹き出る黒煙は、学び舎の風物詩でもあったが、ダルマ型の石炭ストーブが姿を消し、味も素っ気もない、ワンプッシュですぐに暖かくなる角形の石油ストーブに変わってしまったのだ。

ダルマストーブの思い出は尽きない。それは楽しいことと嫌なことが同居していた。ボクたちの頃は、ストーブに火を入れる役が当番制になっていて、他の生徒よりも早く登校しなければならなかった。遊ぶことはともかく、そういうことで早起きさせられることは、ボクにとって苦痛以外の何ものでもなかった。

石炭の置き場所は運動場の隅にあった。規則通り学校に行き、前日の燃えカスを、黒塗りの楕円型のバケツに入れて石炭置き場まで運んだ。それを捨て場専用の、言わばボタ山に捨てるのだ。そして、空になったバケツに新しい石炭を入れる。しかしそれは覆った雪を取り除くことから始めなければならなかった。

石炭バケツに山盛りに積んで運び、ダルマストーブの火入れ口から十能で入れる。更に着火用の柴か、細く割った薪に火をつける。石炭に火がつくまで時間がかかった。上手く火がつかないと、教室じゅう石炭特有の臭いが充満した。吹雪ともなると強烈な風が煙突から逆流し、教室全体が煙突状態になって授業どころではなかった。二人一組だから10日に一度は必ず、嫌でも順番が廻ってきた。当番は女の子と組まされていたが、男が多い分、どこかでズレて男同士になることもあった。

それは5年生の冬であった。「悪ガキ」の先輩ともいえるT君と組むことになった朝、いつものように石炭置き場へ行くと、すばやく石炭をバケツに入れ、ボクの方を向いてニヤッと笑った。そして言った。
「面白いことを考えた。ここに罠を仕掛けるんや。あした面白いで」
「罠って、何?」
「ここに水撒いて凍らせるんや」
「そんなことしたらケガするやん」
ボクは、毎年、凍った玄関でこけて、鼻血を出す生徒がいることを思い出した。そして、
「そんなんより穴を掘ろう。落とし穴作るんや」
「そうか、その方がケガせんでいいし、職員会議にかけられんで済むしな」
思いつくと、後先考えず夢中になるのであった。

石炭置き場の手前に腰高ほどの雪穴を掘って、焚き付け(着火用の柴)を穴の上に乗せ、そっと雪を盛った。
こういうことは「悪ガキ」にとって、行きがけの駄賃のようなもので、凍えそうな冬の嫌な役目を、どこかで緩和させる技を心得ていたのかも知れない。
しかし「悪ガキ」の予測は甘かった。翌日、HRの時間に教壇に呼び出されて、こっぴどく説教をくらうことになったのである。

ともあれ、ワンタッチで着火する石油ストーブに変わったことで、朝の弱い「悪ガキ」にとってはありがたいことに違いなかったのだが、それは、楽しみのひとつを奪われたことに等しいことでもあった。

雪の落とし穴・・・
(1) 雪面を軽く固める。
(2) 穴を掘る。(落ちた時に衝撃がないように、下に柔らかい雪を置いておくとよい)
(3) 穴の上に、柴などを置いて、少しずつ雪を被せていく。最後に、細かい粉雪を撒いて目隠しをする。
(4) そっと足跡でもつけておく。(くれぐれも掘った穴に落ちないように)

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「かまくら」はボクのイベント。

2006.12.14 (Thu)

さて、正月の準備も無事に終え、疲れ果てて寝正月を決め込む家族をしり目に、ボクは、ボクだけのイベントが待っていた。
「かまくら」である。

大雪の降るボクの田舎では、お盆のような人の行き来は殆どなく、ひたすら寝てばかりであった。朝の神事が終わり雑煮を食べると、後はすることがなかった。それで、早速ボクは表に出る訳だが、殆ど手をつけていない冬休みの宿題が気にならないでもなかった。
三ヶ日だけは、寝てばかりの親から「宿題しろ」だの、口煩いことは言われなくて済むので、堂々と好き放題できたのだ。

毎年、正月の頃には1mほどの雪が積もっていた。これは自然の内に根雪になるのだが、本格的に寒くなるのはまだ先のことで、この時期、雪は湿気を帯びてスコップで叩くだけですぐに固まった。

「かまくら」作りは、いつも玄関脇の庭と決めていた。直径2m半、高さ2mくらいのドーム型の雪山を作り、満遍なくスコップの腹で叩いて固めた。昼間の太陽で更に、しっかり固まった。それから出入り口を切り込み、ドームの中をくり抜いて雪を掻き出していく。
中は子どもなら5~6人はゆうに入れるスペースがあった。
昼、朝と同じ食事を慌ただしく済ませると、近所のガキどもがゾロゾロ集まってきた。ボクは七輪を持ち出して、「かまくら」の中で餅焼きを始めた。餅を食べながらトランプに耽り、みかんを食べた。
「かまくら」の天井は、青白く透けて幻想的な空間になった。汗が出るくらい、「かまくら」の中は暖かかった。

「かまくら」を作る
(1) 雪を固めて大きな山を作る。(崩れないように、しっかり固める)
(2) スコップで入り口を切り込み、中をドーム型にくり抜く。(壁の厚さは天井の高さにもよるが、60~70cmは必要)
(3) コタツやコンロを入れると、更に暖かくなった。餅焼きもした。トランプもした。キャンドル立てて彼女とX’masってどうだろう。でも、暴れると天井が落ちるかも。

かまくらの風景.jpg

「緊張と緩和」の十円投げ。

2006.12.08 (Fri)

勉強にしろ家の手伝いにしろ、ある種のプレッシャーが続いた後、必ずといっていいほど、張り詰めたゴムを弛めなければならなかった。これは社会人になっても変わることがない。そういう意味で言うと、故・桂枝雀が語る「緊張の緩和」は、ボクのためにあったのだと思える。

しかし、張り詰めていなければいけない場面でも、時に弛んでしまったゴムが戻らなくなることもある。「やるべきことはやっている」と言ういい方もあるが、そこは社会人として落第だと言えなくもない。
(そう硬っ苦しいこと言うなよ)

「貧民ゲーム」で大ひんしゅくをかったことは前回述べた通りであるが、この「十円投げ」ゲームも同じことが言えたのだ。

「虎の穴」の石油プールで泳ぐような超ハードな毎日で、部内は、異様な空気が満ちていた。空ろな視線が天井に張り付き、突然歌いだす者がいれば、パンタイルの地ベタにあぐらをかいて「チンチロリン」に励む者。「コキリコ」を鳴らす先輩もいた。トイレのドアをよじ上り、大なる行為を覗く者がいれば、大人しくチビチビと酒をヤル者もいた。もちろん仕事中である。

代理店の某氏も、自社で味わえない「緩和」の楽園がいたく気に入り、連日のように訪れたのであった。
ボクのデスクの横には、そういう人のためにいつも椅子が置いてあり、夕方の5時を過ぎる頃、当たり前のようにやって来て、自分の居場所のようにしていた。
本人は「貧民ゲーム」でも始まらないかと期待していたようだが、そうそう相手をしている訳にはいかない。しかし、魔の隙間というものはあるものだ。緊張の後の緩和を捉えるのが、彼は実に上手かった。ボクは、そういう隙間には逆らえない習性があり、抵抗なく滑り込んでしまうのだ。

そんなある日、某氏のいない昼間に誰かが食べ残したお菓子の空き箱を見て考え付いた。菓子箱は縦横20個ほどの仕切りがあった。その仕切りの一つひとつに、ランダムに数字を書き込んで壁際に置き、3歩ほど下がって十円玉を投げた。それを見ていた同僚が、次々と十円玉を投げ込んだのである。

暫くして同僚の一人が言った。「ただ入れるだけでは面白くない。得点の大きい者が全部頂くというのはどうや?」と。明らかに犯罪である。しかし、こういうものはすぐにエスカレートするものだ。

その日の夕方、代理店の某氏はやってきた。そして彼は、ボクのデスクの横に置いてある菓子箱を、目ざとく見つけて言った。
「これ何? また新しいのを考えたん?」
その後のことは“言うに及ばず”である。

●菓子箱で十円投げ(A)
仕切りのある菓子箱を利用し、枠の中に数字を書き込む。
一定の距離から投げ、点数の高い者が勝ち。
バックの塀を利用しても面白い。

●金属の定規で十円投げ(B)
金属製定規を横に置き、絵のように一定の距離から指で弾く。
コインは定規に当てないように、できるだけ接近させ、定規とコインの距離が短ければ勝ち。物差に当たれば負け。

十円投げ.jpg

貧民ゲームと輪投げ

2006.12.07 (Thu)

ガキの頃の話しではない。広告プロダクションに入社して5年目の頃、大きな仕事を任されることになった。最大手のスーパーが、スポーツ専門とカルチャー専門の店を同時オープンすることになって、そのデビュー広告の一切を引き受けることになった。

オリエンから半年後のオープンまでの間、残業・終電は当り前で、おそらく半分は泊まり込みになったと思う。何日も帰れなくて、家から着替えを届けてもらったことは一度や二度ではなかったし、三日三晩完徹というのも何度かあった。我慢大会でもサバイバルゲームでもなかったが、日を追う毎にチーム内が一人、また一人、ダウンしていった。それまでも「鉄人」の異名で知られていたが、「虎の穴」伝説はその頃から始まったのだと思う。

その頃のデザイン部内は、「虎の穴」の石油プールで泳ぐような有り様であった。とにかく忙し過ぎて自分がどうなっているのかさえ自覚できない内に、どんどん時が過ぎていくという状態が続き、遂には人格をも疑われそうな者も出始めた。もっとも当時は「可笑しな人間」が普通であったようで、社の方針としても「社に恥じない良い社員」である以前に、いかに「良い仕事をする」かを優先していたため、多少はみ出した人間も野放し状態と言えたのだ。

ともあれ、そのオープニング企画の大詰めにノベルティグッズの開発があった。何種類かあった中のオリジナルのトランプは、後々問題を引き起こすことになった。

毎年、冬のスキー旅行の宿で恒例となった、「大貧民」というトランプゲームを、社内で始めたのもこの頃だった。

仕事をしていても「遊び心」というより、本気で遊んでしまうことが多く、回りのスタッフに随分迷惑をかけてしまったが、大仕事は無事に終焉を迎えた。しかし問題を残してしまった。「大貧民」ゲームである。トランプ遊びは何ということはないし、確かに最初は昼休みだけで問題はなかったのだが、予想外に過熱してしまい、終業時間と同時に会議室に集合するようになった。中には、仕事を後回しするものも出た。会議室のドアを開けると、既にトランプを切って待っているのだ。

更に、ノベルティのサンプルで、トランプの刷り上がりがスタッフ全員分届けられたのもいけなかった。4、5人でささやかに始めたゲームも、そのころには20人にも膨れ上がり、トランプ3セット同時に配るエスカレート振りになったのである。顔ぶれには部長クラスも数人混じり、たまたま訪れていた大手代理店の人も入って、会社全体に広がる勢いであった。

ところがある日突然、「トランプゲームは一切禁止」という社長命令が下った。まあ、当然といえば当然である。社を訪れるお客さんが驚き、会議室は占領され、大騒ぎなのだから社長命令も病むを得ない話しなのだ。

後日、代理店の某氏に「今日は貧民ゲームはやらないの?」と訊れた時には、さすがに大笑いした。
この「輪投げ」も次回の「十円投げゲーム」も、その頃に代理店の某氏と始めたものである。

まっすぐ飛ばない輪投げ・・・
紙筒(S社のセロテープの薄い紙筒)を、適当な幅(2cmくらい)で輪切りにする。
ゲームは普通の輪投げと同じ。ただし、普通の輪投げと違い、軽い材質で風の抵抗があり決してまっすぐ飛ばない。狙い通り飛ばないところが面白い。

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竹スキー

2006.12.01 (Fri)

家から一歩外に出ると360度ゲレンデみたいなもので、物心つき始めた頃には竹スキーを履いていた。「暖冬」などという言葉が存在していなかったその頃は、ほぼ暦通り冬がやってきていたし、毎年、冬らしい表情をしていた。

ボクたちが冬休みに入る頃には、山の方は既に白くなっていて、平地でもアラレが降り始めていた。どこが発行したものかは憶えていないが、昔、家で使っていた日捲りカレンダーには、一年間の農作業のスケジュールが書かれていた。それが移りゆく季節の目安になっていた。大幅にずれ込むことなく、冬を迎える段取りも予定通り行われていた訳だ。

カレンダーよりも、もっと正確なのは「空」だった。空を見ていれば天気がどう変わっていくかが判った。気温が低下すると、地平線の方へ雲がどんどん低くなる。雪が降る前は雲が厚くなり、鉛色よりもっと濃くなってくる。降り始めると白くなってくる。と、こんなことはごく初歩的なことであるが、そこに臭いとか空気の重さ(たぶん湿度に関係してると思う)とか風の向き、そして空の音も聞き分けるのだそうだ。インデアンのようなお祈りや占いこそしないが、動物的な感覚というのか、自然を相手にする農家の人にとっては当り前のことだったかも知れない。
年末まで降ったり止んだりを繰り返し、正月の頃には膝高くらい積もっていた。これがほぼ根雪になるのである。そして、2月になる頃には堂々たる雪国になる。しかし半端ではない。一晩で50~60cmも積もることもあるので、2m3mなんてあっという間に積もる。たまにそんな大雪になると困ってしまうが、毎年のことなら腰は座るものだ。「1階が埋まれば2階から出入りすればいい」と、すべてがこの調子でなのだ。

真っ暗な玄関は閉め切られ、学校へ行くのに長靴を持って2階に上がるシチュエーションは確かに異常だし、そこを出ると友だちが待っているというのも普通ではない。しかし、そこしか出口がないのだから仕方がないのだ。

ところが、その自然の驚異は殆ど感じていなかった。驚異をどころか、喜びさえ感じていた。雪が降るといのは、色んな理由づけができるもので、学校に遅刻しようが、道草し過ぎて帰りが遅くなろうが、すべてが許されたような気がした。

小学校の4年生の時に、初めて本格的なスキーを買ってもらった。それまでは竹スキーを自分で作っていた。と言うより、スキーを買って滑るという考え方をしなかったし、ストックを使うことさえ知らない。スキーにしてそうだから、リフトはおろか整備されたゲレンデも基本から教えてくれるインストラクターもいない。知っていることと言えば、誰かに聞いたことがある直滑降と斜滑降。全て自己流なのである。
毎年冬になると、竹スキーやそりに明け暮れ、小学校の3年生の頃には45度以上の斜面など軽々と滑り、段々畑に自分でジャンプ台を作って飛んだりもした。しかし、その後どういう訳か二十歳過ぎるまで機会がなかった。社会人となり、信州に始めて行った時はナメていた。一日でかつての感覚は取り戻したものの、我流の癖は如何ともし難かった。

竹スキーの作り方
絵は短いもので書いたが、長さは自由。長いほど雪面に立った時に安定する。
(1) ちょうど足の幅くらいになるような竹を用意する。
(2) 着雪面を平たくするために割れ目を入れる。
(3) 先端を曲げるため、15cmほどのところを中心に、何度かに分けて火に炙る。
(4) 先端以外の節を削り取り、角を丸く削る。
(5) 45度くらいの角度になれば冷やして固める。
(6) 足の重心が6対4の位置になるよう、靴を差し込む輪をつける。
   (踵を固定するベルト。使い古しの自転車のチューブ)
(7) キリで穴を開て釘を打ち付ける。
(8) 後部も短い板で固定する。

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糸電話

2006.11.27 (Mon)

電話の普及は地域によってまちまちだが、ボクらの村の各家庭に置かれるようになったのは、確か昭和30年代半ばだったと思う。それも直通電話ではなく、共同電話とか有線電話で、一旦、交換を経なければならないものだった。

共同電話はすぐに姿を消した。共同電話は、数件の家が共同回線で繋がっていて、たまたま受話器を取り上げると、同じ回線で使用している人の会話が聞こえ、そのことが不評をかって、すぐに有線電話に切り替わったのだと、後日聞いた。

共同電話の前にも村に一台だけあるにはあった。めったにかかってくることもなかったが、電話の持ち主がおいそれと留守にできない、面倒臭いものであった。それに、持ち主が取り次ぎのために奔走しなければならない。ちょうど、宮崎駿氏のアニメ「となりのトトロ」とまったく同じ世界だった。

柱時計のような木箱の真ん中に通話口があって、でかい聴診器のような受話器がコードで繋がっていた。受話器を上げて通話するのは今と同じだが、当時は、間に交換手が存在していて、ハンドル式のダイヤル(何と言うか分からない)をグルグルと回し、まず交換手を呼び出し通話したい相手の番号を伝え、電話局が相手を呼び出すまで待機しなければならなかったのだ。もっともボクはそれを使ったことは一度もなかったが。

有線電話は今でも地方に行けば見ることがある。ボクの実家でも固定電話とは別に、有線電話も相変わらず置いてある。理由を聞くと、村の“集まり”や災害などの緊急時と、農家中心でもあって農作業の情報がその都度放送される。高齢化の進む過疎地では確かに情報が流れにくく、有線放送に頼る以外にないのであろう。

携帯電話が普及し、家族単位から個人に、しかも二人に一台以上の今ではとても想像できないだろうが、かつて、電話もテレビに並ぶ先端的文化生活の主人公であったことは間違いない。

糸電話の作り方
(1) コップ大の紙筒を2つ作る。
(2) パラフィン紙(硫酸紙)を2枚用意して、筒の一方を塞ぎ、しっかりとテープかのりで空気が漏れないようにつける。
(3) 糸を筒の内側からパラフィン紙の中央を通す。
(4) 糸が抜けないように、先に5mm程度のマッチの軸を結ぶ。(もう一方の筒も、同じように糸を通す)
※ 糸をピィーんと張って話すとパラフィン紙の振動が、糸を通して相手に伝わる。(糸は長くない方が良い)

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焼き鳥零れ話

2006.09.28 (Thu)

これは、ボクの友人が話していたものである。
彼は学生の頃、何年か寮に入っていた。その学生寮の周辺は年代物のイチョウの並木があって、そのイチョウの木をねぐらにしていたスズメが毎晩のように帰ってきたらしい。貧しさとは恐ろしいもの。彼は窓の外の“鈴なり”のイチョウの木を見て思った。「これがメシだったら」と。

彼は、鈴なりのスズメが寝静まった頃合を見計らい、そっと寮を抜け出した。遠くの沼から届く牛蛙の無気味な鳴き声だけの、外灯一つない暗闇である。イチョウの木に恐る恐る登る。・・・くゎ~っ、いるわいるわ。さすがに最初は冗談のつもりであったが、これがなんと上手くいった。カン袋(紙袋)を片手に、まるで柿でも採るように手掴かみにである。冗談のようなマジな話し。

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野山の実を食べる……4

2006.09.22 (Fri)

 ギブミー・チョコレートやチューインガムの時代は知らないが、チョコレートはともあれ、どういう訳かチューインガムをクチャクチャ食べながら歩くことが憧れであった。かと言ってチューインガムが簡単に買える筈もなく、普段と同じように両ポケットに手を入れ、口だけクチャクチャさせながら、顎を突き出して歩いていた。

 春になるとガキどもが河原の土手や田んぼの畦に集まった。青臭い、旨くも何ともないチガヤの若い穂を口一杯に詰めて、一日中クチャクチャさせていた。そう言う意味においてはミドリという植物も同じだろう。友人の話しによれば、冬、赤松に寄生する、いわゆる寄生植物で、これもチューインガム代わりに食べたそうである。
(四国の方でミドリと呼ばれる寄生植物はちょっと謎が多い。発芽時期も生態も分からないが、友人によると、赤松の枝に寄生する植物で、米粒を一回り大きくした鮮やかなグリーンだそうだ。それでミドリと呼ばれ、これもガムのように食べていたらしい。ちなみに、松ヤニも食べたと経験のある人もいるらしい)

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野山の実を食べる……3

2006.09.21 (Thu)

 山々に春霞がかかり「ツクシ」や「山ウド」の芽が出る頃、「イタドリ」や「スイバ(ボクたちはシンジャと言っていた)」がようやく顔を出し始める。4月に入り新学期がスタートすると、袋に入れた塩をポケットに押し込んで学校へ通った。

 とにかくボクたちはいつもお腹をすかしていて、野山にある食べられるものは何でも口にしていたものだ。道々生えている「イタドリ」も「スイバ」もとてもスッパイ野草だが、皮を剥いで塩をつけて食べると、甘味が出てそれなりに美味しかった。

 誰が考え出したのか分からない。これは野生欠食児童の「通」の食べ方とされて、山猿どもは皆こうして食していた。(注意…犬のテリトリー内に生えている植物は避けましょう)

「桑の実」もボクたちのおやつになった。傍らに養蚕業を営んでいたわが家には、畑という畑の畦には桑の木が植えられていた。梅雨時近くなるとそれに黒い実がつき始め、大きな竹篭をしょって蚕の餌である桑の葉を入れては、実を食べたものだ。(桑は5月の中旬から実をつけ始める。その後数週間で実が黒くなり、この時期に食べると甘い)

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野山の実を食べる……2

2006.09.20 (Wed)

 野や山の味覚は何も秋だけではない。雪解けが始まると、あっという間に野山は蘇る。バライチゴは残雪を見ながら白い花を咲かせ、梅雨に入る前に甘スッパイ赤い実をつける。平地には殆ど見られないこの植物は、人里離れた山奥の傾斜地によく自生し、人が近付くことを拒否するかのように鋭いトゲを身につけている。

 梅雨時になればスーパーでも時々見かける山桃は、ルーツを辿れば自然に自生していた植物だそうである。この実は、名前を聞いただけで唾液線が全開になるほど思いっ切りスッパイのだ。

 スッパイと言えば、グーズベリーだって引けをとらないだろう(提灯のような模様があって、ボクたちは提灯グミと呼んでいた)。そのまま食べる人は少なく、果実酒にする場合が多い。(グーズベリーは、別名マルスグリとか玉スグリと言って梅雨時に実る)
guzu.jpg

野山の実を食べる……1

2006.09.20 (Wed)

 11月に入ると日本列島の山々が赤や黄色に染まる紅葉の秋である。旅人たちはそれを目当てに、北へ南へ移動する。しかし紅葉は遠くで眺める方がいいに決まっている。近付くとマダラであったり、ゴミが落ちていたりとがっかりしてしまう。

 どこかの茶店で抹茶でも飲みながら紅葉を眺めていると、空き缶は落ちているわ、弁当の屑は捨ててあるわ。まったく、道徳のカケラもないやからが多いことに、せっかくの紅葉も色褪せてしまう訳だ。

 道徳の話はともあれ、ボクの田舎では、紅葉の秋の中に家があるようなもので、わざわざ旅をする必要はなかった。そんな中でボクといえば、専ら紅葉の山中へ溶け込む毎日であった。秋の実りは目を見張るほどで、山ぶどう、アケビ、グミ、柿、栗、ドングリ・・・・と、一日中歩いても飽きることはなかった。(山ぶどうのイラストはこんなに大きくありません。せいぜい粒は7~8mmです)
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アリ地獄釣り

2006.09.13 (Wed)

 数年前、大阪と奈良の県境にある二上山に登った。竹内街道から国道166号線に出て、ちょうど登山口にあたる所に鹿谷寺があった。寺の境内といっても山の中だ。木陰で腹ごしらえしていると、目の前の岩の窪みに珍しいものを見つけた。アリ地獄の巣である。何十年ぶりだろう。山道の脇で親子連れがそれを覗いていた。

 アリ地獄など最近の都会の子は知らないだろう。それもその筈、まずアリがいなくなった。いなくなったというより、害虫と勘違いしてアリを殺すスプレーまで売られている。(アリくらいドナイヤチュウネン!)

 そこへくると田舎はイイ。その気になればアリ地獄はすぐ見つかる。寺の御堂の下、柱の根元、風通しがよくて日光があまり射さない所や、もちろん普通の民家にもある。それも古い家の縁の下あたりだ。アリ地獄はウスバカゲロウの幼虫でアリなどの小さい虫を、すり鉢状の巣に誘ってエサにする。

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