昔遊びと悪ガキ

キラキラとした別世界。・・・今考えると、これほど外の世界が魅力的に感じた時代はなかった。

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チロチロ水を出した

2015.02.11 (Wed)

先日、ブログ友だちのMさんがFB内で、「今宵も、チロチロ水を出した・・・」という、懐かしくもあり、面白げなコメントがあった。それで思い出した。

Mさんのお住まいは広島県のモロ山間部で、大雪になるのかどうかは知らないけど、氷点下になるのはザラにあるのだそうだ。氷点下になるだけなら別に珍しくもないが、問題は、都会生活では思ってもみない「水」の心配があるわけだ。

水溜まりには氷が張る。路面はツルツル滑る。野や畑に霜柱が立つ。耳は寒さで切れそうになる。そんな環境下ではションベンが瞬時に凍ったりはしないまでも、水道管が凍ったり下手をすれば破裂することもある。だから、蛇口からは常に、水を流し続けねばならない。

ボクが生まれ育った田舎は、日本海に面した険しい山間部であった。5kmほど離れた隣町には、知る人ぞ知る「湯村温泉」がある。そこから更に中国山地に向かった丁度、「春来峠」の入口であった。もっとも40年ほど前に引っ越しして、今は住んでいた形跡すら残っていないが、当時は雪が3m近く積もり、冬の最盛期には2階から出入りしていた。

田舎-雪
(高校入学時のボク)

そうなれば1階など、一日中電灯を点けていないと真っ暗闇になってしまう。現在はどうなっているか知らないけど、その頃、下水が完備していなかった、いわゆる「ぽったん便所」で、「物」を汲み出した後のゆるい時は、うっかり「おつり」を頂くこともしばしばあった。

ところが、雪に埋もれると家の中は存外、寒さを感じなくなるものだ。が、外は全く違う世界である。濡れタオルをブンブン振り回しただけで、あっという間に凶器に変わってしまった。

それほど極寒の中で水道はどうしたかである。都会ではあらゆるインフラが充実していて、蛇口を捻っただけで好きなだけ使える水がある。しかし、その頃の我が家といったら、谷の奥に自力で造った貯水槽から管を引いてきていた。おそらく300mはあったと思う。

その管(塩ビ管)は50cmほどの土中に埋めて、外気に直接触れないようにしてあったが、霜柱が立つほど寒くなると管自体に不測の事態が起きる。つまり管の中で水が凍り始めるのだ。管の容積は変わることがない。水が止まり、一旦凍り始めると管内に閉じ込められた氷が、急激に膨張し、管そのものを破壊するのである。

そうなったらおしまいである。修復しようにも貯水槽までのどの部分に事件が起きているのか分かったものではない。まさか3m積もった雪を300m間、掘り起こして見るなど不可能である。だから、それを未然に防ぐために常に「チロチロ水を出して」いたわけだ。土中に埋めた塩ビ管には更に工夫がされていた。それは細縄をグルグルと管に巻いて寒さから守っていたのだ。まさしく先人の知恵であろう。

それでも過去に何度か悲惨な経験がある。水道の蛇口にツララが下がっているだけなら、湯をかければやがて溶けるけど、管が凍ったり破裂すると、修復は雪解けを待たねばならない。そんな時は、あり余る雪を大鍋で溶かして使用していた。

炊事用の水は使う量はしれているし、水洗でなかった便所のことも関係ないが、風呂と洗濯だけは地獄であった。玄関から風呂場まで、一輪車で何十往復もするわけだ。薪を焚き風呂一杯の雪が溶け出す。そうして満タンになる頃には、身体中に湯気が立ちのぼった。



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思い込み---その2

2012.04.14 (Sat)

何につけても下準備を怠らないのが、ボクのヨメである。
外出前の女性は、男と違って時間が必要なのだ。それはひとつ屋根の下で暮らせばすぐに分かること。だからボクはいつも、「何時に出るゾ!」と予め言っておく。

しかし、たいがいその時間より30分はズレる。ズレるのは前ではなく後ろである。それで時々、小言を言ってしまい気まずい思いをしながら外出してしまう。

ボクは29才の時に大阪から奈良に移り住んだ。新居を求めて大阪の各地を巡ったが、なかなか気に入った土地と条件がないので、当時、西大寺に住んでいた先輩に相談した。

先輩はすぐに新聞の織り込みチラシを持ってきてくれた。それですぐに決めた。決め手となった大きな理由は粋な地名だったからだ。『恋の窪』(大安寺の西に位置するのどかな郊外)であった。

であるが、話はそのことではない。
引っ越しして間もなく、奈良を探索しようということになった。そうなるとヨメは、1週間も前から地図を買い込み、計画をし、知り合ったばかりの隣人たちから情報収集するのだ。たかだか1時間圏内の散歩程度のところでも、大旅行並みに事前調査をするのだ。

ヨメはA型人間である。A型をけなすわけではない。むしろそれだけ慎重に計画してくれるのだから安心できる、だが正直鬱陶しい時がある。逆にボクはB型の典型で、その場に立ってから考えるタイプなので、当然のように現地でもめることになる。

当日、バスと電車を乗り継ぎ奈良へ。駅を出てまず目に入るのが、登大路の坂である。ヨメは持参していた地図を広げ、現在地を確認してグルグルグルグルそれを回していた。普通乗用車免許皆伝のヨメは、意外と方向音痴であった。

ボクは平城旧跡と大仏殿の位置さえ分かっていれば、間違うことはないと考えていた。確かに平城旧跡は電車で見ることはできる。が、終点(近鉄奈良駅)の手前で地下に潜るので、到着した時点で方向が分からなくことは分かるが。

登大路は平城から見て東側を南北に走る。大路は坂になっていて南へ上っていくから、坂の上が大仏殿になる。つまり、大仏殿へ行くのなら目の前の坂を上れば辿り着く。

地図を回しているヨメを尻目に、ボクは坂を上り始めた。ヨメは後を追いつつも、まだ地図を回している。途中で立ち止まり前後左右をグルグル。(面倒くさい、いつもこの調子だ)

大仏殿を参拝し、ならまちを散策するという計画だったので、ボクは駅へ引き返すより南から回った方が都合がいいと思った。大仏殿の前の道は、出てすぐに西へ大きく曲がっている。その道のどこかで右へ、つまり北へ向かえばならまちへ入れると考えた。

だがヨメは、ピタッと足を止め地図を逆さにしてキョロキョロ。挙げ句、自分一人で駅の方へ向かいかけた。ヨメの持病が出たのだ。コマツカタ タダシ同様、一旦こうと思ったら絶対に自分を曲げない。見上げた根性である。

ボクは爆発寸前をどうにか我慢して、ヨメが広げている地図に指差し、目的地をなぞってようやく納得させた。(やれやれ)
問題は、ならまちに入ってからである。

ならまちは袋小路である。昔の寺内町(じだいまち)だから道が狭く、土地勘がなければ迷路探検よろしく、出口の見えない罠にはまってしまうのだ。だから、道の角々にはご丁寧に標識が立ててある。

旧志賀直哉邸の高畑から北へ、登大路同様、今度は坂を下る。細い通りが縦横無尽に走っている。軒先につかえそうな、小さな町家がひしめく。ヨメは相変わらず地図と標識を見、ボクは町家の下の影を頼りに歩く。影の方向さえ間違えなければ迷うことはない。

gangouji.jpg

3時間ほどかかった。ならまちのほぼ半分は歩いた。
元興寺を出た辺りからヨメの姿を見失った。しかし、駅までそう遠くないので帰れないことはない。ボクは駅までの道程を見回しながら駅へ向かった。

駅で30分ほど待ったが、ヨメの姿は見えなかった。仕方なくボクは電車に乗った。家に辿り着くもヨメの姿はない。
後刻ヨメに聞くと、元興寺を一人で出てから、気に入った風景が目に入ったので、そこへ行ったらしい。で、案の定帰り道が分からなくなったという。

コマツカタ タダシ

2012.03.18 (Sun)

時々、茶店でお茶飲みながらの人間ウォッチングすることがある。『この人の中にはどんな物語があるのだろう』というやつだ。
ひとりで静かにお茶している人、集団でやってきて、あることないこと大声でしゃべっていたり。

聞く気もないけど、勝手に耳に入ってしまう会話の中に、本心で言ってるのかと、甚だ疑わしい話しもあったり。押し並べてみれば、人間って思い込みが激しくて勘違いするものだなあって、つくづく思ってしまう。例に漏れず自分もまた同じなのだが。

ところがボクよりウワテがいた。ヨメである。
それは『こいつ、どういう性格なのだ!』と、思いたくなるくらい頑で、自説を曲げようとしないから始末に悪い。

これは随分昔のことである。結婚して暫く言い続けていた人の名前に「コマツカタ タダシ」というのがある。
人の名前をよく知っている彼女のことだから、きっとその人は存在していて、ボクだけが知らないのだと思っていたが、ある日、TV画面に現れた俳優を指差して「コマツカタ タダシ」と言ったので、そこで初めて気づいた。

俳優の名前は「小松方正」だった。性格俳優の彼を、ボクは好きだった。しかし、ボクはずっと「コマツ ホウセイ」だとばかり思っていたので、そのことを言うと、彼女は「ホウセイ」なんていう名前はあり得ないと言うのだ。




こういうことである。名前でも何でも、ある一定の法則性に沿って付けられ「方」と「正」がくっついた名は、名前として法則に反するのだと考えているようだった。

今では、昔のように姓は姓、名は名として法則に基づいた姓名が主流とされた時代と違い、珍しくもないが、当時の彼女の中では法則に反するものは、一切あり得なかったに違いない。

だから、「タダシ」という一文字が、名前として成立している限りにおいては「コマツカタ」までが姓なのだと思い込んだのだろう。

これは笑うしかなかった。笑うしかなかったが、彼女にとっては人生を覆すくらいの大問題であった。それと同時に、ボクの中にもまた、『自分が勘違いであったのか?』という一抹の不安に駆られた。

「コマツカタ タダシ」事件は、このまま解決することもなく、また、ボクの中に疑惑を残したまま月日が過ぎた。

その事件の後、再び新たな事件が発生した。
「エキショ コウジ」事件である。
あのイケメン俳優「役所広司」が巷を賑わせていた頃、ボクは普通に「ヤクショ コウジ」と言っていたが、実はヨメには許せないものがあった。「役所」は公務員が住むところであり、「ヤクショ」と呼ぶには相応しくない。だから「エキショ」と呼ぶのだと思い込んだ。分からないけど。

あまり「エキショ」「エキショ」と言うものだから、ボクは友人たちとの会話の中で、ついうっかり「エキショ コウジ」と言ってしまった。ついうっかりだ。

ボクは今でも勘違いすることがある。だが、ボク以上にヨメは強力である。

大人の少年時代の話し

2012.03.09 (Fri)

ブログ友だちであり、かつての同僚であり、また数十年来の友だちである彼のブログを見て、何かすごく懐かしい気持ちに浸っている。

「昔は良かった」などと言えば、爺のいう代名詞かのように言われるが、そういうことは20才代30才代でも、誰でも考えることで、そこには世代感覚のギャップなど存在しない。

まあ、それはそうとして、彼の投稿文の中に懐かしいスキーウェアを着た若々しい姿があった。たぶん20代の頃だろう。ウェアについての解説はできないけど、膝の部分を絞ったレーシングスタイルとでも言うべきか、当時は「アレがカッコいい」とされていた。

スキー板は2mを超す長いやつが流行っており、それを担ぐと肩にずっしりと食い込んだ。長いこと(たぶん10年くらい)ゲレンデに出ていないので、今どんなファッションで、板はどんなんか分からない。
ともかく、その頃持っていた板と言えば、ブーツをビンディング部に押し当てるとガチッと音がして、ブーツの先のところにある、バネ仕掛けのハンドルを前に倒す。総てが重量感溢れるものであった。

ボクはスキー歴は長い。小学校に上がる前の、おそらく4、5才くらいだと思う。その頃はスキーの道具は買うものではなく、作るものだと父から教わった。
つまり、竹スキーである。

当然、4才5才では作れないから、最初は父に作ってもらっていた。ちなみにストックはない。それを履いてゲレンデに出るのである。ゲレンデ? そうゲレンデはない、しかもリフトなんてものはあるわけがない。

takesukii.jpg

裏の段々畑の、段になっているところに雪を埋めて、即席のコースを自分で作るのである。傾斜度は10度もないだろう。こういう斜面でいくら竹スキーを滑らせても拉致があかないし、面白くない。

だから、父には絶対に上るなと釘を刺されていた裏山(45度はある)へ、こっそり上った。山の下から見上げる45度はたいしたことがない。だが、上から見下ろす45度は「壁」である。滑るという感覚ではなく落下する感覚に近い。これが面白いのだ。
ボクはそうして。徹底的に我流でスキーを覚えた。

リフトのあるゲレンデでスキーを始めたのは30才近くなった頃だったと思う。初めて会社の同僚20人ほどで、信州へ行った。

その頃の会社は、家に帰る時間が惜しいくらい忙しい毎日で、ヨメに着替えを届けてもらったこともあった。それほど激務の中、金曜の夜中に出発して、夜通し電車の中で宴会し、未明に現地へ。荷物を預けメシ屋を探す。腹ごしらえの後、朝一番のリフトへ直行。それからナイターまで延長戦を戦うのだ。

一日目のメシ&宴会も延長戦へ突入する。日曜日も同じ調子でクタクタになるまで滑る。夕方帰路に着き、月曜の未明に会社に辿り着いてようやく仮眠するという、超ハードなスキーツアーを毎年繰り返すことになるのだった。

ともかく、スキーを格闘技と考えるボクのようなバカがいる反面、スキーはついでで、目的が宴会と決めつけているアホがいたものだ。
(また、続きがあるよ)

冬支度

2010.12.01 (Wed)

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11月が終わって、今年もあと1ヶ月になった。
この季節になると、いつも思い出すことがある。

田舎の秋は足早に過ぎ去る。秋の到来は稲の刈り入れで感じ、そして稲刈りが終わると同時に、冬の足音が聞こえてくる。
あの頃の父がそうであったように、長い冬の期間だけ、村の男たちは遠い都会へ出発する。
出稼ぎの準備に忙しくなる12月、子牛の競り市、そして、春に帰ってくるまでの間の、残された家族の食料の確保、来年の作付けの準備まで終え、休む間もなく出発した。

ボクの田舎は、冬の間、雪に埋もれてしまう。だから、交通が途絶えた時のために、生きるための食料を用意しておかねばならなかった。米農家だから米は十分ある。野菜もそうだ。だけど、3か月も4か月も食べる、大量の野菜を保存しなければならない。

3ドアの冷蔵庫でも、それが10台あっても足りないくらいの大容量の冷蔵庫があった。天然の雪である。
ジャガイモやサツマイモを除く根菜類は、雪が降る前に畑の中に埋めておく。葉物野菜類は畑に植わったまま、ワラなどで覆い、凍結を防ぐ。その上に雪が積もったとしても、掘れば新鮮なまま出てくるわけだ。

越冬期間に家族5人が食べる米の量が、どれくらいであったかよくは憶えていない。が、育ち盛りのボクを筆頭に、大飯食らいの子どもが3人。それに保存食用と正月のお飾りのためのお餅をつくので、何キロという単位ではない。

大雑把ではあるが、米1俵がどれくらいかと言うと、スーパーで売られている5キロ10キロの大きさではなく、「斗(と)」で表示される。つまり、1斗をキロに置き換えると約15キロ。1俵が4斗としたら約60キロになる。

ボクの田舎では、どの家庭でも大量のお餅をつく。後年、父によれば、5斗のお餅をついていたそうだ。5斗は約75キロである。余談ではあるが、我が家が今、夫婦2人で1ヶ月で食べるお米の量は、約7キロであるから、その10倍以上がお餅になっていたのだ。

お餅だけでこの量であるから、日々の家族の食用を合わせると相当な量になっただろう。だから、倉庫には何俵もの米俵が山積みされていた。食用のもの以外は玄米のままで保存した。しかし、後に残った大量のモミ殻をどうするかである。

昔の人の知恵なのだが、モミ殻を燃やして田んぼに撒くと、肥になるという。そう言えば今くらいの時期、田んぼでは、山盛りにされたモミ殻の先から煙が上がっていたのを憶えている。

父は、それを「スクモ」と言っていた。スクモは一般的には「泥炭」とか、藍の葉っぱを醗酵させて作った染料のことを呼んでいるが、ボクの田舎では、モミ殻を燃やしたものをそう呼んでいた。

吐く息が白くなり、田んぼの畦道に霜柱ができる頃、野良のアチコチにスクモのエントツが立つ。円錐状に山盛りされたモミ殻の先に、簡易のエントツが立てられる。モミ殻山の下の方で火をつけると、ゆっくりと、そして徐々に上に向かう。

枯れ葉色のモミ殻山に、黒いシミが少しずつ広がった。

日本海から吹き込む冷たい風は、冬の到来を告げる。頬が切れそうになるほど冷たく、そして厳しい。




カーカの木

2010.09.23 (Thu)


合歓の木の花が咲く季節は、とっくに終わった。通常は梅雨の頃に満開になるのだが、ボクが生まれ育った村では少し遅れて、夏休みが始まる前の7月中旬頃が、ちょうど満開だったと記憶している。
以前書いた小説「ドードーブチ」は、その頃が背景になっている。

山と山に挟まれた、およそ三角形の景色にしか見えないそこは、平地よりは一ヶ月近くずれて、季節がやってくる。そして、平地より少し早めに秋が訪れた。


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合歓の花はピンク色で、フワフワとした綿のようなきれいな花だ。
小説「ドードーブチ」は、悪戯好きの主人公・将太少年が、短い夏の一瞬に、鮮やかな自然の中で戯れる姿を描いた作品である。碧天舎の応募規定によって60枚程度の短編であったが、どういうワケか、最終審査までいって、残念ながら、やはり落選になってしまったのだが。

ドードーブチは夏休みの間、村の子どもたちの集まる場所であった。そこは村の中ほどにあった。川幅は狭く深いところでも大人の腰くらいしかなかったが、急流の途中には滝壺が何カ所かあった。そのひとつがドードーブチである。

ドードーブチはひと際深かく、壷のようなカタチをしていた。そしてその上には合歓の木が覆い被さり、毎年ピンク色の花を咲かせた。

将太少年が夏休みを迎える頃、合歓の花の大部分は枯れて、茶色くなってドードーブチの隅や、河原の端へ流れ溜まっていた。
将太は一日中そこで遊んだ。合歓の木の隙間から、夏の強い光りが降り注ぎ、ドードーブチの水面でキラキラ反射する。

子どもたちの喚声と蝉の鳴き声が、谷間にこだまする。冷えきった身体を大きな岩に預け、甲羅干しをした。耳を岩に押し付けると、ジワーっと水が抜けるのが分かった。濡れた岩は瞬時に蒸発した。将太の股間からは生暖かいものが流れて、水面で泡立たせた。

辺りはやがて黄金色に染まり、河原の淵の草むらでベンベラコ(ウスバカゲロウ)がフワフワと舞いたった。



合歓の木のことを、将太たちは「カーカ」と呼んでいた。
カーカの木の不思議は葉っぱにある。その昔、祖父が子どもの頃である。その頃、石けんはまだ高価な時代で、祖父たちはそれを石けん替わりにしていたという話しを聞いた。1900年代の初頭である。

野良での仕事で汚れた手や足を、道端にあるカーカの葉っぱで洗っていたという。ボクたちの子どもの頃は、それで遊んでいたが、葉っぱをしごき採り、水で濡らしながら手で揉むと、確かに石けんのような泡が出る。一度、お試しあれ!



夢の中の祭囃子

2010.07.19 (Mon)


あの日のことを思い出す度に、ボクの中で祭囃子が鳴り始める。
トントコトン、トントコトン、トントコトントコトントコトン・・・

あれはいつだったか。
小学生になっていたのか、それともまだであったか。
母はその頃、すでに心臓を患っていた筈である。しかし峠越えができたくらいだから、まだ体力は残っていたのだろう。

土用の丑の日を迎えると、祭の便りが急に増えてくる。
真っ青な空に入道雲。風鈴の音。揺れ動く団扇と下駄履きの浴衣姿。金魚すくいにヨーヨー。りんご飴と綿飴。ニッキと黒ボウ。ランンイングシャツに学帽・・・

ボクの記憶画面は、いつも大人の腰から下の世界であった。
大人たちの間を縫うように走る。壊れたレコードのようにその間を行ったり来たり。時間は止まったままだ。

ある瞬間、櫓の輪から子ども姿が消えた。
打ち上げ花火の音に、思わず振り向く。
けたたましい爆竹の爆裂音が響き、白い煙が大人たちの間を這った。
蝉の鳴き声は、やがて細くなって祭音頭がこだました。

真っ白に白粉を塗った大勢の狐が、櫓を囲んだ。
そして、和太鼓の乾いた音が頭上で響く。
トントコトン、トントコトン、トントコトントコトントコトン・・・

母に連れられて行った先は、母の実家にほど近い神社の境内であった。山のような櫓に和太鼓が置かれて、赤銅色に日焼けした若者が櫓を囲んでいた。白狐たちが、コーンコーンと飛び跳ねる。

母の実家は、ボクの生まれた村から更に山越えしなければならなかった。コースは2つ。ひとつは隣の温泉町を経由して行く「楽々安全コース」。いまひとつは山越えの「チャレンジ・アドベンチャーコース」である。

温泉町を経由すればバスが使えるし楽であったが、母はせっかちであった。温泉町を経由するコースの半分の時間で済む、山越えのアドベンチャーコースでショートカットするのを選んだ。

険しい山越えである。土地勘がなければ、まず遭難は必至。それに当時、噂されていた事件に巻き込まれるおそれがあった。事件現場はヨーカン林であった。

ヨーカン林はボクの家と母の実家の、ちょうど中間にあった。ということは、つまり山の中である。
ヨーカン林は、大きな杉木立の森で、昼間でも薄暗かった。杉林の地面には陽が殆ど届かないから、雑草も少なく、数十センチ幅の山道が見て取れた。

母や村の人たちが言うところの「事件」とは、こうであった。

ある旅人が、このヨーカン林にさしかかった時、絶世の美女と出くわした。女性は草履の鼻緒を切って困っている。旅人は見るに見かねて修繕してあげた。女性はそのお礼にと、隣村で求め持っていた包みを旅人に渡した。

包みの中は村の名物の羊羹だという。旅人は、一度は断ったものの結局受け取った。旅人は、反対方向へ去る女性を見送って、先を急いだ。村の茶店が見えてきた。

茶店で腰を下ろし、汗を拭う。汗が出るのは険しい山越えばかりではなく、女性から受け取った羊羹のせいでもあった。旅人は、茶をすすりながら、懐から包みを出した。

疲れた時ほど甘いものが欲しくなる。旅人は好運であった。
しかし、事件は次の瞬間起こった。
羊羹であった筈の包みの中味が、なんと、牛の糞に化けていたのだ。
旅人の脳裏に祭囃子が聞こえていた。
トントコトン、トントコトン、トントコトントコトントコトン・・・



ゴム長靴にワラ敷き

2010.05.29 (Sat)


最近読んだ小説に「翔べ! わが想いよ」という「なかにし礼」の作品がある。その中に「雪の降る寒い日に、ゴム長靴の底にワラを敷いた」とあった。
あまりにも懐かしい話しで、涙が出た(ウソ)。

彼の祖父は小樽で造り酒屋を営んでいた。大戦が始まる直前に開拓者として、祖父を小樽に残して満州に移住した。そこで彼・なかにし礼が生まれた。彼の両親は苦難の末、満州でも造り酒屋を興し、成功した。満州での幼少時代は、使用人を何人も抱えるほど、何ひとつ苦労せず贅沢に育った。

彼が5才の時に終戦を迎えた。終戦と同時に満州は地獄と化した。彼の父親は、ソ連軍の「男狩り」に遭い、数ヶ月後に病死した。新京からハルピンへ。そしてハルピンから日本へ。気の遠くなるほど地獄の逃避行であった。

新京を脱出して1年半、なかにし親子はようやく日本の地に降り立った。向かった先は青森(その後、転々とする)だった。
氷点下30~40度という極寒の満州で生まれ育った彼にとって、青森は温暖な地に感じたのかも知れない。しかし、いくら満州とは違えども、青森は北海道のすぐ隣である。寒くない筈はない。

ボクは、かつて氷点下18度の札幌を経験しているが、住みついたことはない。ちなみに、ボクが生まれ育ったのは、日本海にほど近い山陰の山の中である。そこで暮らした18年間で、おそらく氷点下10度以下というのはなかったと思う。

それでも日本海から吹付ける大陸風と、湿気を含んだ雪が村じゅうを凍えさせた。ただ、ボクは寒さで堪えたという記憶がない。雪が降ろうと強風が吹き荒れようと、家の中でゴロゴロしていた記憶が、まるでないのだ。

防寒対策などというものは殆どない。数少ない記念写真には、セーターを着て、マフラーとニット帽姿しかない。そういえば通学時に着ていたマントはあった。

ゴムガッパはあったが、あれは汗をかくと気持ち悪くて不健康だ。もちろん着心地のいいダウンウェアのようなものは当然ない。もし防寒対策があったとするなら、それは、なかにし礼のいう「ゴム長靴にワラ敷き」であろう。あれは非常に暖かかった。昔の人の生活の知恵には感服する。

足が冷えて困った経験がないボクには、ワラ敷きゴム長靴の効用は逆に蒸れて困ったほどだ。
冷え症の女性が小さなカイロを足に貼っているらしいが、あれは暑過ぎる。どうせブーツの中など誰も見ないのだから、ワラを敷くべきだと思う。冗談だけど。



トイレ談義

2010.05.26 (Wed)



便所にまつわる話しは過去に何度もしていて、またかと思われそうだが、ともかくネタが尽きないのだから仕方がない。
少し前から通っている会社の、トイレに貼ってある貼り紙を見て、ついつい思い出してしまったことがある。

トイレの状態を見れば、家なら住人の人となりがトイレに表れ、例えば公衆便所なら、そこに住む市民の人間性がそのまま表れるという。そして、やはり「貼り紙」「落書き」が付き物と言えるだろう。

思い出したのはその「貼り紙」についてである。
ボクが大学生の時に頻繁に出入りしていた、友人のアパートの共同便所にこんな貼り紙が貼られてあった。
『備え付けの紙以外のモノ以外は、使用禁止』と。

実にヘタクソな字で堂々と、しかも大文字で、なおかつ2カ所の「以外」の横に二重の赤丸で、わざわざ強調されていた。『備え付けの紙以外のモノ以外・・・』。言いたいことの、意思の強さは感じる。その貼り紙はついに、友人が引っ越す日まで外されることはなかった。

やがてボクは大学を卒業して、市内にある広告プロダクションに勤めることになった。入社当時はまだ、社員が30名ほどの小さな会社で、小さなビルの2フロアを占めているに過ぎなかった。

各フロアにトイレが1っ箇所で、小便器3つ、大の方が2部屋。男も女も同じトイレで致すのだ。こんなことが今の世にあるとすれば、社会的にも大問題であるが、当時は世の中を騒がせるようなことは、何も起こらなかった。

確かに男女の悩ましい噂は、時々あったが、それ以上のことはなかった。知らないけど。
問題は男女共同トイレではなく、二つあった大便所のことであって、その一方に『嗚呼いや、大成る行為はお隣で!』という貼り紙があったことである。

一見で分かる人はすぐに分かる。つまり、大成る行為はウンコのことであり、貼り紙してある方の部屋は、何らかの理由で大成る行為ができなくなっている。それを知らせる貼り紙であることが分かる。さすがに広告プロダクションだけある。

たかがトイレの貼り紙といえど、その筆跡、文章のセンスひとつで作者の、やはりこれも人となりが分かるというもの。それに比べ、公衆便所の低能さは酷いものである。

近年は割ときれいになってはいるが、少し前までは顔を背けたくなったほどで、公衆便所に入るより便秘症の方を選んだほどである。一面に垂れ流したまま、誰も掃除もしない。おぞましくも便器にトグロ巻いたまま流さない。壁という壁には低能で露骨な落書きがあり、しかも書いた落書きに対して返事をするアホもいるほどであった。

町の落書きは、犬のマーキングと同じだと思っているが、そのマーキングでさえ、トイレのバカ書きに比べて芸術的に見えるから、不思議であった。そんなトイレだから入る隙間もない。危なくてズボンを下ろすこともできないのだ。

(内モンゴルでの話しは欠かせないが、長くなるので次回に)

さて、最初の話しに戻る。
その「ある貼り紙」というのは、前に述べた低レベルなものと比べようもなく、ボクはある種、文学とか芸術に匹敵するほど魅了するものだと思った。決して大袈裟ではなく。

貼り紙には次のような文字が書かれている。
『ティッシュは管に詰まる。ティッシュ使用禁止!』と。
独特な筆跡ではあるが、文章そのものは簡素でストレートなものだ。しかし、そこには動かしようのない頑とした信念と、威圧感さえ感じる。

当然、状況は想像できる。トイレットペーパーを切らして、たまたま近くにあったティッシュで、コトの後始末をした。それだけなのだが、横着者が多いせいか、ティッシュの箱が暫くの間、置かれっ放しであった。

あるいは買い置きがなかったのかも知れない。なければないで、注文すれば済むことなのだが、一旦便器にしゃがんでしまうと、後の祭りである。罪悪感に苛まれつつも、ついテッシュの箱に手が伸びてしまう。この繰り返しだったのだろう。

実はボクもその一人だったのである。分かってはいた。がしかし、言い訳なのだが、トイレに入る時、公衆便所ならともかく紙があるかどうか事前に考えることはない。入って、しゃがみ、用を足し、ヒョッとペーパーホルダーに目をやる。「あっ、そや、ないんや!」




不幸な笑い。

2010.02.21 (Sun)

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雪国で生まれ育ち、寒さには滅法強かったが、今のボクは、都会の生活にドップリと浸かったせいで、この時期の寒さが堪えるようになってしまった。厳冬期でも浴衣一枚で過ごせたこともあったというのに。

それが、いつの日か逆転してしまった。環境の変化に適応したというのも理由だろうし、歳のせいでもあろう。人生の半ばを過ぎて、第二の人生は「どこかで?」と考えたならば、それはもう決めている。できるだけ暖かい(暑いだけはごめんこうむるが)田舎で、毎日、海を眺めて妄想しながら暮らすのだと。

そういう話しはともかくだ、今、列島のあちこちで、梅の開花を知らせる映像が流れるこの時期、農家も長い眠りから目覚める。

桃の節句が過ぎる頃、冬の間出稼ぎしていた父が帰ってくる。そして、その疲れを癒す暇もなく、野良へ出ていった。霜柱が畦道を覆い、ぬかるんだ圃場に張った氷が、パリパリと音をたてる。雪の重みで潰れた水路を修理する。荒起こしする前の土手に火をつけ、野焼きをする。

田んぼに肥料を施し、畑に石灰を撒く。並行して種モミを麻袋に入れて、手が切れそうなくらい冷たい川に浸ける。発芽を待つ間に、田んぼの一部を耕して苗床を作るのだ。

ボクが小学校へ入学する頃までは、田畑を耕すのに牛の手を借りてやっていたが、燃料さえあれば自在に操れる耕耘機が登場した。それでも、耕耘以外の作業は殆ど人力であった。肥料や農薬の散布はもちろん、代かき、田植え、そして除草から稲刈りまでの総て。

ボクはそういう父の背中を見て過ごした。耕耘機の荷台に載せてもらい、舗装されていないガタガタの砂利道に揺られながら通う日々。ただ、父の後を追い、畦道で一人遊びしながら眺めるだけの。

父が田んぼの中で忙しく動き回る間、ボクは畦道を行ったり来たりした。野焼きした後の焦げた雑草に、早くも新しい芽が伸び始めている。フキノトウの群生があった。チガヤの若芽が顔を覗かせる。そのチガヤの芽をつんで、口の中へ放り込む。

青臭い香りが口中に広がった。
このチガヤを、ボクたちはチューインガムの代用として、ムシャムシャと噛んでいた。お世辞にも美味しいと言えるものではなかったが。

チガヤを頬張り、父の後を追い、畦道を歩き回った。そんな時だった。不幸にも畦で足を滑らせて尻餅をついた挙げ句、下の田んぼへ転落した。

代かきの前だったのが幸いしたものの、水たまりにヘッドスライディングするかたちになった。刺すように冷たい泥水が身体中に侵入してくる。慌てて水たまりで顔を洗った。ぬれた手で身体をはたいて泥を落とす。ついでに尻もはたく。が、何やらネットリしたものが手にまとわりついた。

泥だと思った。そう思い込んだまま何度も尻をはたいた。暫くして言いようのない異臭が漂い始めた。そして、注意深く茶褐色に変色した手を嗅いでみた。

ボクはその臭いに、思わずのけぞった。あまりに刺激的で、脳みそへも悪影響しそうなその元凶を、いっそ斬ってしまいたいほどであった。

暫く、呆然と手を眺めた後、ようやく青みがかった土手の雑草で、それをネシクリ(但馬地方の方言で「こすりつけて拭い取る」こと)、水たまりへ走った。不幸な出来事ではあったが、自業自得と言うべきか。異臭の元凶をつくったのが、他ならぬ自分であったのを、一瞬にして覚った。

あれは、秋の収穫が終わりつつある頃のことであった。村人たちの協力で行われた稲刈りの最中、ボクは、どうにも我慢ができなくなり、刈り取りの終わった畦でしゃがみ、大のものを放出してしまったのだった。



田舎の記憶(第4話)

2010.01.16 (Sat)


昭和30年代に入って、毎年のように大きな台風がやってきた。34年(1959年)の伊勢湾台風、36年(1961年)の第2室戸台風は、かすかな記憶の中にある。


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写真は36年の第2室戸台風直後撮影されたもので、かなり痛んでいる。この台風で我が家の裏庭が崩落し、寸でで家が流されるところだった。写真手前の空き地らしき部分は、崩落した庭を修復した直後のものだ。

ここにびっしりとあった植木や花の一切が、川の中へ消えた。真ん中からやや下に黒い帯が横にある。この下に春来川が流れている。いや、流れていた。その向こうに、当時はまだ砂利道だった国道9号線。

国道沿いに電柱(木の柱)と、稲木(稲を天日に干す木の棚)が見える。国道を挟んで、石垣の階段を上がると我が家の畑、そして、今もある墓地だ。この写真で見える段々畑は他所のもので、我が家の畑は向かって左側の斜面にあり、角度的に見えない。

どこの家庭も、ずっと以前からやらなくなった蚕産が、この頃、農家の副業としてあった。電柱の向こうに見える木が、蚕を育てるための桑の木である。桑の木は栽培が簡単で、畑の畦に植えられあっという間に育った。蚕の臭いはあまり好きになれなかったが、梅雨時に結ぶ実がボクたちのオヤツとなった。

里山は美しかった。今のような便利な機械はなく、総てが人の手で手入れされていた。大阪東京が3時間。この時代は、およそ8時間ほどだったという。我が家から東京まで行くには、まず一日3便しかないバスで湯村温泉まで行き、浜坂行きの便に乗り換える。そこから蒸気機関車で大阪経由か京都経由になる。

確か東京への直行便はなかったと思う。かすかな記憶だが、ボクが4、5才の頃、祖父と横浜へ行ったことがあった。その時は山陰線で京都で乗り換え、東京行きの夜行に乗ったと思う。家を出て、横浜の親戚に辿り着いたのが半日後だったらしい。

便利に慣れた今、急ぐ旅でないと分かっていても、十何時間も鈍行に揺られるなんて、うんざりだと思う人が多いだろう。楽な方法が優先されれば、不便な暮らしは切り捨てられる世の中。機械に慣れてしまった人は、二度と鍬は持たないと、誰かが言った。里山が消えたのは、そんな理由からだろうか?



田舎の記憶(第3話)

2010.01.14 (Thu)

「っわ! ここは、まるで秘境だわ!」
初めて我が家のお墓参りをした時の、ヨメの第一声だった。
本人も田舎育ちのクセに、他人事のように “秘境”と言う。険のある言い方に反論して、「それほどでもないって」とボク。実際、見えるのは山ばかりで、反論も苦しいばかりであったが、実際、本当の“秘境”に比べれば大したことはないと思っている。

と思いつつも、ともかくボクの田舎は起伏が激しく、複雑な地形をしている。山間に家や田畑があって、暮らすには非常に非効率になっていた。例に漏れず我が家も、田んぼ、畑、山林、屋敷のすべてがそんな中にあった。しかもバラバラに。


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我々の先祖がこの村に住み着いて、どんな開墾をしてそうなったのか、今は分からない。バラバラでも家に近ければいいのだが、どういうわけか、見事にてんてんバラバラなのだ。

中でも、村が管理する畑というのがある。その畑は山の急な斜面に、ウナギの寝床のように細長く、しかも波立っていた。そこを、村、十数件で均等に分けて使っていた。国道からすぐ見えるところにあるのだが、川を渡っていきなり50度の壁がある。

いわゆるスイッチバック式の細い山道を暫く上ると、比較的緩やかな斜面になるが、それでも30度はあっただろう。そういう環境だから、その畑にはいっさい機械が入らなかった。

我が家に一番近い畑は、屋敷南側に約10坪、家の前の通学路を横切って、10mほど下がった川べりに300坪ほどあった。以前にも話したが、その畑はボクの遊び場であった。

畑に降りるには、前の牛のつなぎ場を通らなければならない。そこは、納屋掃除の時に出る牛の排泄物を、暫く積み上げて醗酵させる場所であり、隣に木で囲ったつなぎ場がある。その隅に下への石段があった。


石段は二股に分かれており、一方は通学路沿いに、もう一方は春来川に向かってまっすぐ伸びていた。川への石段を下りると畦道の両側に畑が広がり、父の丹精した作物が映る。しかし、冬となれば一面の銀世界に変貌した。
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柿の大木が2本、やや小さめの柿の木が十数本と、他に梅の老木(これは祖父の幼少の頃からあったもの)と山椒の木、野生化した桃の木が無造作に植えられていた。

川べりの土手沿いに数十本のグミの木とビワの大木。グミの下の石垣には放ったらかしのイチゴ、畦道の先の生ゴミ置き場で、勝手に実をつけるカボチャのジャングル。今思えば、あれこそ“楽園”であったのかも知れない。

つづく





田舎の記憶(第2話)

2010.01.09 (Sat)


さて、更に話しは続く。
前回の平面図では、見てもよく分からないという方に、スケッチでご覧いただこう。


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平面図では、どこにでもあるのどかな山間地と思われたであろうが、実のところ、起伏の激しい土地柄であることがお分かりになるだろう。
まず、国道から通学路へは鋭角の脇道が切れ込んでいる。若干緩やかなスロープの先に、高さ10mほどの橋がある。


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たかが十数メートルの長さではあるが、太い木材数本渡してあるだけの危ういものであった。ボクが小さい頃は、それでも欄干らしきものはあったのだが、風雨にさらされ、いつか完全に下の川へ落ちてしまった。つまり、高さ10mの無防備な橋である。

橋から通学路へ少しずつ傾斜している。幅が4mあっただろうか、左手には大人の背丈ほどの我が屋敷の石垣。右は10m下の畑にストーンと落ちている。畑は300坪あまり、それを取り巻くように春来川が流れる。


屋敷周辺の石垣の上には、生垣替わりに多くの植木や花が植えられていた。松、キンモクセイ、南天、梅、柿、ブドウ、ダリア、グラジオラス、ハラン、菊、カンナ、オモト、ケイト、露草、百日草、などなど。

余談ではあるが、たぶん小学生になるかならない頃、裏庭の隅に杉の苗木を植えたことがある。その杉はある特殊な訓練のためであった。
ボクは当時、どうしても忍者になりたかった。高い木に飛び上がり、木から木へ飛び移るアレのことである。

そして決心した。愛読書の冒険王の中にこんなことが書かれていた。忍者の訓練は小さい頃から始まる。数年間は人気のない原生林の中で獣と暮らす。気配を消すために息を止めたまま行動する。そして、汗をかかない。滴る水滴をひたすら見る、と。

そして当面の肉体的修練は、どれだけ高く飛び上がれるかであった。忍者の武器は身の軽さである。だからそのために、杉の苗木を植え、毎日毎日その木の上を飛び越えるのだ。来る日も来る日も。

杉の苗木は、日に日に成長する。自分が成長する速度より遥かに早く。しかし、それが自分の腰ほどの高さになった時、木に触れることなく飛び越えることができなくなった。それでも忍者への修行は続いた。

崖の上から落ちる石に飛び乗ってみたいと思った。危ない計画だと知りつつ、まず崖を滑り降りることから始めた。身の軽いボクには簡単であった。次に大きな石を蹴落とした。その石が落ちる早さを見て、同じ速度で崖を降りれるか試した。だが、どうしても石の方が早いと思った。

ようやくコツが飲み込めた頃、今度は崖の上に上がることが、どれほど辛いものかを思い知った。深い森の中での修行も、杉の苗木飛びも、崖の石渡りも、そして水中での修行も、とりあえずは挑戦したが、やはり忍者への道は遥か遠いものであった。

というエピソードつきの杉は、ボクが高校になったある日、他の花の陰になるといって切り倒された。

つづく




友三郎叔父

2009.12.18 (Fri)

この叔父は、今まで(亡くなるまで)4、5回くらいしか会っていない。
父の5人兄弟の次男にあたる叔父は、学校を卒業してすぐに横浜に居を移した。昭和30年代に神奈川県足柄下郡という土地で電気屋を興し、老齢になるまで店をまもった。

その叔父に会ったのは、何年かに一度の割合でお盆に帰郷した時と、中学生の時、修学旅行で東京へ行った帰りに、箱根山に登り富士山を見て、十国峠から熱海の旅館に滞在した時に、突然訪ねて来た時くらいだったか。

但馬と伊豆では遠すぎる。だから自然に疎遠になったのだろう。ボクが高校になってから以降は一度も会っていない。年賀状は毎年届いていたが、3年ほど前からこなくなった。というのは、その頃既に体調を崩してペンをとれなくなったのだろうか。案の定、去年の暮れに突然「喪中ハガキ」が届いた。

年賀状以外の交流が殆どなかった父とその叔父。父も自分より若いのだから、先に逝くなど夢にも思っていなかったふしがある。父は「亡くなったことも知らせず、冷たい」と詰ったが、後の祭りである。兄弟は他人の始まりというが、そういうものなのか、と思う。

まだ我が家にいた叔父の若い頃のことは、父から殆ど聞いていない。父から聞いていたのは、小さい頃から電気に興味があって、自分で蓄音機を作ってしまったことだけであった。もちろんそれ以外のことを本人から聞ける筈もないが。

熱海には行ったが、旅館のロビーらしき所で暫く話した以外に全く記憶に残っていない。たぶんその頃まだ40歳に届いていなかった筈の叔父である。若々しく、エネルギーに満ち溢れて見えた。黒ぶち眼鏡の中の目がキラキラと輝いて、直視できないほどに眩しかった。

叔父は十代の頃から電気に興味を持っていた。興味というより「執着」という言い方が正しいかも知れないが。何しろ十代の若さで、既に将来の夢なるものが実現できると確信していたのだろう。

産業や経済が発展した現在ならともかく、その昔は、将来設計は生まれた時から決められていたようなものだったと思う。つまり農家で生まれ育てば農業を、商家であれば2代目にという具合に。そういう意味で言うなら、叔父など殆ど異端児なのだろう。貧しい農村には場違いなくらいに。

田舎の、特に農家になると、その息子は当然後を継ぐことになる。「人権無視」とか「人格破壊」と思われるかも知れないが、今の時代には考えられないことがまかり通っていた。父もそうであった。父のことはいつか触れるとして、叔父は、思い通り電気の世界を目指した。

ところがだ、昭和10年代の頃と言えば、電灯の他にはせいぜいラジオくらいしかなかったと思われるから、これも不思議といえば不思議だ。電灯はつまり「裸電球」の上に傘が被さっているだけの灯りで、戦時中のドラマによく出てくる茶の間シーンが浮かぶ。空襲警報が鳴ると、その傘の上から布を垂らして、灯り漏れを防ぐあれである。

そんな物資不足で、しかも一般家庭の電化製品と言えるものが、電灯とラジオしかなかった時代に、電気に思いを寄せていたなど、それだけでも叔父はすごいと思う。

父の少ない話題の中で話しを繋ぎ合わせるとこうなる。
まずは電灯ないしはラジオがターゲットだろう。少年の感覚として「灯りを発する電灯」あるいは「音が聞こえる電気の箱」が、如何なる構造から成るのか、それが不思議であったに違いない。

たぶん叔父は、それらを分解することから始めた。分解して、再び組み立てる。組み立てると、元通り機能するか確かめたくなった。ちゃんと機能することが分かれば、新しいことが始めたくなるというもの。

叔父の興味は「蓄音機」であった。
現在のオーディオ機器などの電気製品総て、LSIの基盤が心臓部になっているが、この頃の音響関係はまだ真空管式であったから、機械そのものが巨大で、その上故障しやすかった。ラジオも巨大であった。我が家にあったそれは、小型犬の犬小屋くらいの大きさはあったと思う。真空管の寿命は短くて、切れると取り替えなくてはならなかった。

蓄音機はずっと以前からあるにはあったが、ボクが実際に見たのは、骨董品としてである。もちろん一般家庭、それも田舎の農家でその時代に、蓄音機を目にすることは考えにくいから、叔父がどこでそれを見たのか、である。それこそが叔父の一生をも左右する大事件と思えるから。

叔父は、どこかで蓄音機を見付け、「手に入れたい」から、恐らく「自分で作りたい」と、次第に変わっていった。そう変わったのは、我が家の経済状況では手に入らないのが分かっていたから、必然だと思う。

そして叔父は、ついに作ってしまった。十代の叔父が。


インチキ占い師

2009.12.15 (Tue)

年賀状に先駆けて、この時期に決まって届く喪中ハガキ。「喪中につき・・・」というやつだ。今年、特に多いのはそういう年回りなのかもしれない。

そして気がかりのは、お墓の移転という大事業のことだ。
我が家(実家)では、お墓の移転が長年のテーマであった。「そんなもん簡単やんか!」と言われるかもしれないが、そういうものではない、らしい。以前も何度か話したが、但馬から今の朝来へ転居して40年近くなるが、未だにお墓はそのまま但馬にある。

終の住処の今の場所には、新しく墓地は購入してある。まだ更地のままだが。
お墓の移転手続きは、色々とややこしい問題がある。その地方地方によってやり方が違うらしく、また宗派の有る無しやら、檀家の問題やら複雑なのだ。それでも世帯主が長男でなければ、どこにでも自由にお墓が作れるし、宗教も自由に選択できるが、あいにく父は田舎の長男であり、但馬には父の兄弟が健在なので、その方面にも何かと気を遣うのだ。
でも、その辺りの気遣いは既になくなってはいるが、その先が遅々として進まないのだ。

お墓の移転は過去に一度経験している。ず~っと昔である。
それは、未だに残っているお墓の、すぐ近くの谷の中にあった。父は、そのことについては「記憶が薄い」と言って話したがらないが、あんな強烈に印象に残る事件を、忘れたくても忘れることはできない。

あの時はまだ祖父が健在であったから、ボクはたぶん小学生の低学年の頃だと思う。
谷の中のお墓は、殆ど陽が届かなかった。谷の瀬がすぐ下に流れていて、いつもジトッとしていた。山の斜面を削って作ったウナギの寝床のようなところ。上からは雑木が覆いかぶさり、水の音が耳鳴りのように聞こえる。

あの時、父と祖父が話していた。「陽の当たるところにお墓を移さなければ、今によくないことが起きる」と、占い師に言われたという。その頃、母の心臓病が思わしくなく、占い師に頼ったものらしい。つまり、医者も見放した母の命が占い師の霊感によって、「お墓の移転が好転のカギ」とよんだのだろう。

間もなく、お墓の移転が始まった。
ところが、その当時は土葬であったので、火葬が主流の現代のような「骨壺」だけとはいかない。土の底から骨を探し当てるのに、墓を掘り起こすことからしなければならなかった。これは恐ろしい作業である。亡くなった代々の先祖の、いくつもの墓石を取り除き、ツルハシとスコップで、まるで土方仕事のように。

埋葬された時期が10年程度なら、別の意味で怖いが、割と簡単に見つかる。だが、何十年ものになると、さすがに影も形もないのがあり、木片はもとより、きれいさっぱり土に還っていた。

ともかく、お墓の移転は無地に終わり、例の占い師による「悪霊祓い」の儀式が行われた。しかし、その数年後に祖父が急死し、そのまた5年後には母も逝ってしまった。
インチキ占い師に、いくらお金が渡ったのか知らない。だが、それ以来父はそのことを口にすることは二度となかった。




なんでか、アケビの話しに。

2009.10.30 (Fri)

たとえば、子どもの頃に「大きい」と感じた町が、育った土地を一旦離れて、暫くぶりにあらためて見た時、「こんなに小さかったのか」と感じることは誰でもあると思う。そのことで思い出したことがある。
ボクの小学校は山の上の小さな村にあって(というのは何度か話したかな)、全校生が50人程度の小さな学校であった。二階建ての木造校舎は、グランドを挟んで裏山が迫っていた。グランドの隅に桜の老木があった。桜の木のすぐ傍に砂場、エンテイ、ジャングルジム、それから、どう言ったのか分からないが、高さ4mほどの竹登り用の用具があった。

山の斜面を削って無理矢理造られた学校なので、広いわけがないのだが、その当時はすごく大きいと感じていた。大きいと感じてはいたが、その実、ソフトボール大会の時のホームランなど、軽々とグランドを超えて山の斜面まで飛んだのを見送りながら、「やっぱり狭いんや」とは思わず、「怪力バッターだ!」になった。

グランドの山側は高い石垣だった。その石垣の上に児童菜園があり、土手の斜面の上は険しい山につながる。その菜園も理科の自然観察の時間以外は、ボクたちの遊び場にもなっていた。急斜面の土手には、野生のグミや野いちご、そして沢には野生のわさびが自生していた。

そこから山へは道一本ないので、入るには猿にならなければならなかった。山は杉林が僅かにあったが、殆ど広葉樹で覆われていた。だからこの時期、教室にいながらにして紅葉を楽しんだものだ。

グランド遊びに飽きた山猿たちは、この燃えるように色づいた樹林へ分け入る。立ったまま手を伸ばせば、片方の手が斜面に届きそうな険しい山だった。しかし目的地はもっと、奥の奥にある。こんな斜面を登る時は、真正面から挑むのではなく、足の外側を使って登るに限る。ちょうどスキーで横歩きするように。

やがて学校の屋根が見えなくなるところまで分け入る。そこは燃えるように映える、黄金の滝のようだった。木に登り、ターザンごっこや忍者の真似事で、ありったけのエネルギーを発散させた。お腹がすいても心配はない。山ぶどうはもちろん、アケビ、山法師(もっと早い時期だったか?)、山なし、野生の栗、カシマメ、銀杏、柿、カラスウリ、栃の実、野生のクルミ・・・、思い出せない。

危険な行為こそが楽しいと信じていた。特に山ぶどうやアケビ、カラスウリは手に届くところには絶対ない。でも、見付ける方法はある。蔓科の植物は何かの木に宿るから、木の下に纏わりつく蔓を見ればいいのだ。

あの頃は”本当の猿”はいなかったし、さすがにイノシシは、ここまで登れないから生るがままであった。山ぶどうは市販されている果物のぶどうに比べると、滅法酸っぱくて種が多い。赤い(ピンクぽい)果皮に包まれたアケビは、中に白くて半透明の果肉がついている。果肉の中には真っ黒な種がビッシリ入っていて、それが透けて見える。

実といっても、つまり殆どが種なのだが、果肉の甘い香りは鼻孔をくすぐる。蜜に吸い寄せられるミツバチの気持ちが理解できるというもの。
アケビの食べ方も実に野性的で、いちいち種を取ったりはしない。果皮を開いて、台湾バナナ大の果肉をむしり取って、そのまま口へ入れた。ほんのり甘い香りが口じゅうに広がった。種を噴き出したりすれば、せっかくの美味しさが台無しである。

一旦入れたものは全部飲み込む。それが山猿の掟である。ただ、後々問題が残ってしまう。というのは、つまりだ、種は消化されないからそのまま出てしまうということ。もっともカタチは、ほぼ同じもののようだが、どうも色だけは違う。

あ~~~~、なに?
視野の話しが、なんでアケビの話しになるかって? それは誰にもわからない。もう疲れた。寝るとしょう。



うどんげの花

2009.10.19 (Mon)

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イヌタデの茎に珍しいもの発見した。
「うどんげの花」である。
「うどんげの花」とは、クサカゲロウの卵のことだが、
「うどんげ」そのものにも深い意味がある、らしい。

かつて、遊び惚けて村じゅう徘徊していた山猿時代、
カゲロウをエサに、フライフィッシングのハシリのようなことを
ボクは既にやっていた。
その頃によく見かけた風景である。

長細い毛の先に、卵が1つずつ付いている。
時には数十個まとめて産み付けられていて、
不気味に映ることもある。
地域によって言い伝えがあるようだが、
吉兆や凶兆として伝えられ、
ボクの田舎では、むしろ悪いたとえになっていた。
たとえば、火事になるとか、凶作であるとかである。


ちなみにWikipediaでは、こうあった。
うどんげは、植物の名前。「優曇華」とも書かれる。実在の植物を示す場合、伝説上の植物を指す場合、昆虫の卵を指す場合とがある。
仏教経典では、3000年に1度花が咲くといい、その時に金輪王が現世に出現するという。『金光明経』讃仏品に「希有、希有、仏出於世、如優曇華時一現耳」とある。また『法華経』、南史にも出る。




スズメ談義。

2009.07.08 (Wed)

スズメって食べられるんですか? とか、そんなに美味しいんですか? とか、どこで売ってるんですか? スズメ屋さんですか?
この質問は、D師匠のブログ友だちとの会話である。見事なまでの素朴な質問だ。だが、当然といえば当然な質問である。何しろ、進化した日本の、狂気と言えなくもないグルメ的食習慣の中で、「スズメ」と「食」とを結びつける人は、誰ひとりいなくなったのだから。たぶん。


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どこの公園でもいる、無遠慮で平和の象徴ハトは、ブラジルの食卓で普通に食されていると聞くが、ボクはそれを「食」と結びつけることはできないし、考えたくもないのだが、ことスズメとなれば話しは別である。

あの味を覚えてしまったからには、地どりの焼き鳥を売り物にしている、かの『G亭』ですら叶う筈がないと、ボクは今でも思っている。

ちょっと話しは逸れるが、ボクが今通っている、ある会社のビルの前のケヤキの木の上にはカラスが巣を作っていて、時ならぬ狂騒を発している。そしてまた、親に見捨てられたハトのヒナが、非常階段の踊り場で若い社員の手によって、旅立ちの手を貸している。ハトはハトでもヒナの内は可愛いものだ。

親代わりの若者たちが近づくと、ピーピーと鳴いてエサをせがむ。だが、あのピーピーはいつ、クルルかポッポか知らないけれど、小憎らしい鳴き声に変わるのか、とりあえずの興味である。

話しを戻そう。
そのD氏のブログ友だちのことである。仮にAさんとしておこう。Aさんは医療関係に従事され、ギタリストでもある。そのAさんはボクと同年代(あるいは、失礼ながらそれ以上かも知れないが)であるにも関わらず、スズメを食していたことを知らないという。女性であり、しかも人の命や健康に関わる職業柄、あの小さくて可愛らしいスズメを食されるなど、考えたこともないのであろう。

農薬や排気ガスの中で必死に生きている姿を見れば、時にはエサを与えることだってあろう。当然であり、Aさんの優しさでもある。だから、庭先にエサ台まで作り、野鳥とのパラダイスを描こうとしたに違いない。

しかしエサ台のエサには近づこうともしない。エサ台に何か仕掛けがあるのか、と警戒したのだろうと思ったのは、かつて彼らを食したという前歴あるボクだから、そう思ったのかも知れない。
ともかくAさんは、エサ台に撒くことことを諦め、地面に撒いた。すると状況が一変してエサに群がった。Aさんのパラダイスが達成された一瞬である。

野生のスズメはある意味、人間は天敵とも言える。人間の臭いを敏感に捉え、警戒した上での行動であったのだろうか、それとも単に受け継がれたDNAによるものだったのか、いずれにしても謎である。

人間とスズメの関係は、遥か昔、人類が穀物を食し始めた頃からの長い付き合いである。それにも関わらず、未だ親密な関係に至っていないのも事実であろう。

「スズメは旨かった」などと、Aさんの微笑ましいパラダイス的世界に水をさしたのは、他ならぬボクである。だが、かつて(子どもの頃)スズメを食したことは、紛れもない事実であり、一度や二度ではない。

収穫時の農家では、スズメやイノシシと格闘するのが常であった。
収穫前の田畑にイノシシが現れると、スズメ相手とわけが違い、ことは重大事件になるが、かつては、山中にまだまだエサになる木の実が豊富で、滅多なことでは里に下りてくることはなかった。
その点スズメは臆病であるが、目がいいし羽という武器を持っている。脱穀の隙を狙って命の次に大切なお米をくすね、追い払っても追い払っても、しつこく押し寄せてくるのだ。

小学生になるかならないかの頃、脱穀を始めようとしていた父から、遊び半分で「スズメ落とし」の秘技を教わった。漫画のような秘技である。
仕掛けは、大きな竹ざると木の枝とヒモだけである。と言えば、ボクと同世代以上ならば、おそらく身に覚えがあるかも知れない。

まず、スズメの集まりそうな場所に少しだけ穴を掘り、その中に籾を入れておく。穴の上に竹ざるを斜めに置いて、一方を木の枝で支えてスズメが入りやすくしておく。支えの枝の下の方にヒモを結びつけて、ヒモの反対を持って陰に隠れる。
やがてスズメがチュンチュンと仕掛けに集まってくる。エサに夢中になっている隙を狙ってヒモを引っ張ると、竹ざるが落ち、一網打尽にするという仕儀である。

しかしだ、これが上手くいかないのだな。彼らも必死である。ざるが落ちるより早く、一瞬にして消えてしまうのである。人間とスズメの知恵比べなら、完全に負けたことになろう。
(最後にAさんすんません)


三角乗りのその後。

2009.06.13 (Sat)


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その頃は存在すら知らなかった。しかし、どこか記憶の片隅に残っている三輪車も子供用の自転車も、ボクたちには無縁の恵まれた家庭での持ち物で、そういうものに乗っている子どもを目にすることは、まず、なかった。三輪車を経て、不安定な二輪車の後ろを支えてもらいながら練習する微笑ましい風景を見るのは、ずっと後のことである。

このブログの冒頭に記載した「三角乗りは、男の通過儀礼」は、まさに昭和30年代にかけて見られた物語である。
ただでも重たい鉄の塊のような大人用の自転車を、丸坊主頭のガキが乗りこなす姿は、珍妙以外のなにものでもない。「三角乗り」とはよく言ったものである。

一見、サーカスでもしているかのような離れ業は、ボクたち子どもにとって、大人への憧れというべきか、一人の”男”への登竜門であったと思う。これを乗りこなせるかどうかが、男の価値につながるのだと思い込んでいた。

子どもが背伸びしてやっと届く、そんな自転車のハンドルを「死んでも放すものか」と、キッと握る。大人たちは、そういう子どもの真剣な表情を、頼もしくさえ感じたであろう。

軽くて扱いやすい今の自転車とは、比べものにならないほど重量感と威圧感があった。これを扱って、もし転んだとしたら、ただの擦り傷切り傷では済まない。つまり、最悪の事態をも覚悟しなければならないほどの代物であった。

構造はと言えば、ペダルからV字型に支柱か出ていて、その先っぽには水平に柱がつながっている。専門的には、V字型の後ろ、つまりペダルからサドルにつながっているのが「シートチューブ」で、前は「ダウンチューブ」。水平の柱、つまりサドルから前輪を支える柱につながっている「トップチューブ」で、この三本の柱が三角形を成している。

今でもこの形はスポーツタイプに見られるが、その頃は、どの自転車もこの形であった。
こういうものに乗って走るには、トップチューブを跨いでサドルに乗り、ペダルを漕がなければ前進しない。だが、トップチューブを跨がずに前進させる方法が、ひとつだけあった。「三角乗り」である。

高学年になると、サドルに乗ることができないにしても、両手でハンドルは握れる。だが小学生になるかならないくらいの小さい内は、両手ではまず無理である。
ではどうやって乗りこなすのか、想像してもらいたい。

ボクが乗り始めたのは、確か、小学校に入って間もなくであったと思う。その頃には既に、多くの同年代の子たちは傷だらけになり、タンコブを作りながら、夢中で格闘し始めていた。
この「三角乗り」は誰に教わるものでもなく、一種伝承的なものがあった。手取り足取りなどという、微笑ましさは一切ない。

初めはションベンちびりそうになるくらいの恐怖があった。自分の体重より遥かに重いし大きい。下手をすればペダルに股間を打ち付ける。チェーンに挟まれる。転べば鉄の塊に潰され、勢いに引きずられることしばしば。

さて、その珍妙な乗り方である。
まず、左手で左のハンドルを握り、右手でサドルかトップチューブ持つ。この時点で、右手は右ハンドルに届かない。次にその格好で、左足を左のペダルに乗せ、自転車を少しだけ右へ傾ける。ここが一番難しい。バランスをとり損ねると、鉄の塊もろとも転倒してしまうのだ。

バランスをとりながら、すばやく三角コーナーへ右足を滑り込ませる。右足はすぐに右のペダルに置く。踏み外してしまえば、それこそV字型の底に股間を打ち付けてしまうし、そればかりではない、そのままの格好で暴走するのだ。

うまい具合に両足をペダルに乗せられても、前進するとは限らない。つまり、ペダルを回転させない限り前に進まないのだが、回転させるには足の長さが足りないのだ。それで、半回転させると一旦戻して、また半回転させる。これを繰り返すのである。

ただ、一度出たスピードは、なかなか止められるものではない。「そのためにブレーキがあるだろう」と思うだろうが、こういう格好で操縦している限りバランスがとりづらく、迂闊にかけられないのである。軽量な子どもだから、ブレーキひとつでペダルから足を滑らせ、大事故のもとになるのだ。
要するに、止まる時にすばやく右足を三角コーナーから抜いて、両足をブレーキがわりに滑らせるのが、一番無難なのだ。



話しがいきなり飛ぶが、ボクが中学生になった時、都会に出ていた姉が休暇で帰っていた。都会で栄養豊富な生活をしていたのか、その頃の姉は、パンパンに肥えていた。しかも自転車に乗ることができなかった。

ある日、隣町まで買い物に出かけることになった。重い姉を後ろの荷台に乗せる。軽量級のボクは、前輪が浮くことに不安を感じた。それに女特有の横座りだから、アンバランスなことこの上ない。案の定、蛇行を繰り返したが、一旦スピードが出てしまえばと思い、そのまま発車した。

隣の家の前にさしかかった時である。急にハンドル操作が軽くなったと同時に、何か物音が聞こえた。自転車を止めて後ろを振り向くと、ハンドル操作が軽い筈であった。今までいた姉が、忽然と消えていたのである。ボクは自転車を止め、恐る恐るもと来た道を引き返した。

アスファルトの道路と、コンクリートブロックを積み上げた壁の隙間。その隙間の溝に、巨大なイモムシのような物体がうずくまっていた。悲鳴を上げながら。


掛け替えのないもの。

2009.02.15 (Sun)

(”目覚めた時”の続き)
小学生の3、4年といえば全くのガキである。だから、本当の意味での”目覚め”は、もっともっと、ず~っと後のことで、単に幼児がひとりの男子として、第一段階に立ったということになるだろう。

特にボクの場合、あのような家庭環境で育ってしまったせいで、つまり男以外に”女”の子という全く違った生き物がいたことに、初めて意識したからだ。そういう意味で、一種のカルチャーショックに過ぎない。

ボク以外の男、あるいは女が、幼児から少年少女へ、そして一人の人間として、どういう過程で成長していったのか分からない。そしてそれが普通の、いわば正常な成長の仕方だったのか、こればかりは知る由もない。

ボク自身を客観的に分析するなら、正常かどうかはともかく、せっかく男女が同居するごくありふれた家庭で生活する中で、異性の関わりについて全く触れることが許されない環境にあった分、立ち後れていたのかも知れない。何しろ、男女の関わりなど汚らわしいものとさえ思われていた節があったから。

正直、不思議でならなかった。3、4年生にもなれば、親の話しを真似てみたりと、オマセな女の子が出始める。女の子は特に、男の子より、心ばかりか身体の成長も数段早い。男の子というのはガキのままである。

それが高学年のなると、ますますエスカレートしていった。時には大人の、つまり自分の両親の秘め事まで話す者さえいたものだ。ボクはそういうことを耳にする度、嫌悪感をもって耳を塞いだ。汚れた最低の人間だと、そういう世界から逃避していたと思う。

ところが、事件は5年生になった時に起こった。祖父が脳卒中で突然、逝ってしまって間もなくのことである。あの頑固で圧制をほしいままにしていた祖父の最期は、全くあっけないものであった。それを期に、我が家は、まるで絵に描いたように”暗”から”明”へと変貌したのだ。

これほどまで変われるものかと思うほど、変わってしまった。ちょうど世の中は、東京オリンピックの準備にお祭り騒ぎのまっただ中にあって、閻魔大王に勝るとも劣らない祖父でも、楽しみにしていたのだが、それを観ることもなく逝ってしまった。

祖父の葬儀を終えて間もなく、我が家にはあらゆる電化製品が届きだした。冷蔵庫、洗濯機、それに東京オリンピックを鑑賞するためにと、大型テレビに一新したのだった。そして、三十路を越えた叔父が、結婚して家を出ていった。あの働き者の叔父が出ていくとなると、急に寂しくなる。

結婚の数日前、ボクは叔父に連れられて浜坂(山陰の漁村で、鉄道の駅がある唯一の町)まで小旅行をした。小学生になってからも、大きな兄だと思って、誰よりも慕っていた叔父が、いなくなると思っただけで悲しくなった。

漁港をぶらつき、美味しい料理を食べ、商店街を見て歩いた。叔父は、最後に「何か欲しいものはないか?」とボクに言った。ボクは野球がしたかったので、バットとグローブがどうしても欲しかったのだが、悲しくてそれを言い出せなかった。

だが、その叔父がいなくなった後、父から手渡されたのは、まぎれもなく、あの時、欲しいのに言い出せなかったものだった。「叔父ちゃんからお前にだ」と。ボクは、その時初めて堰を切ったように涙が溢れてしまった。

叔父がいなくなった我が家は、祖父が亡くなった時よりも、寂しさに満ちていた。だけど、大きく変わったのは笑いが増えたことだった。あの寡黙な父も、病身の母も、毎日笑顔が絶えなかった。ボクの中で何かがなくなり、分からないが、大きくて大切な何かを手に入れたように感じた。”蛇行”する、あの思いを除いては。

目覚めた時。

2009.02.14 (Sat)

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女の子に興味を持ち出したのがいつの頃だったか、よく憶えていない。たぶんそれは、小学校に通い始めて、男と女に性別があると知らされた時からではなかったかと思う。

担任教師が読み上げる出席簿には、男子が最初に50音順に並べられ、その後に女子が並んでいた。どうして男子から始まるのか、その時は、そのことについては考えることもなかったが、今思えば、あれは男尊女卑の名残りではなかったか、そんな気がしている。

昔の家庭では、今ではとても考えられないことが、まかり通っていた。他人の言葉など一切受け入れず、持論を無理に押し付ける頑固な祖父を頂点に、男尊女卑を絵に描いたような家庭に育ちながら、ボクは、男と女の上下関係を、まるで他人ごとのように見ていた。

学校でも、最初はそうであった。男女平等、民主主義の意味が、ようやく浸透しようとしていたこの時代、長きに渡る、男女の屈折した立場が、特に古い世代の中では如何ともし難く、時代の流れへの屈辱と葛藤に翻弄されていたのではないかと思う。

一方で、男女平等だから男女共学などと、ことさらのように口にし、また、自分に言い聞かせるかのように、二つ並べられた机には男子と女子がセットで座らされていた。どこか違和感を覚えながらも、とりあえず建前だけは守ったという形跡が窺える。

だが、息づかいがモロに聞こえそうなすぐ隣に、自分と違う人格がいるというだけで、意識しないわけにはいかなくなった。

不必要なほどの意識がそうさせたのは、我が家の家庭環境が大きな原因ではなかったかと思う。茶の間では、それは顕著に現れていた。まるでピラミッドの頂点に君臨する祖父が、いわゆる上座にデンと座り、その両側には父と叔父、そして小学校に入ったばかりのボクが座る。

母は、土間に近い板間の端に、姉と妹は一応、畳の間であっても隅の方へ窮屈に並んで座らされていたのだ。そんな家庭環境だから、異性に対するほのかな感情や、夫婦の問題など、一言も発する者がいなかった。

そういう厳格で屈折した環境と、建前とはいえ男女平等という学校生活の、両者のギャップを毎日往復していた。だから、おのずと異性に対する抗体のようなものを得ぬまま、時を過ごしてしまったのだろう。俗にいう「オクテ」というやつである。ボクは子どもながらに、女の子の存在に過剰なまで、意識と扱いに悩んでいたと思う。

「性」教育というものは、その頃まだなかった。しかし、人の子を教育する立場にある教師にとって、「性」の違いを教えることは、避けて通ることはできない問題。それは、さも事務的に客観的に、そして淡々と、しかも大まかに知ることになった。理科の授業として。

誰かが言った「女は子どもを産む機械」ではないけれど、その辺りからの説明でスタートしたと思う。男女それぞれの人体模型や、医学書によく出てきそうな写真か絵を黒板に貼り付けて、その「違い」を、苦渋に満ちた顔をしながら。

閻魔のような祖父、大人しい父と叔父、真面目しか信じず、極端に潔癖性の病身の母。そんな家庭だから、家には新聞や父の趣味の絵画集以外の書物は、「家の光」と、その附録らしい「家庭の医学」らしきものしかなかった。”エロ”に関する書物の一切なかった。ある筈がない。その存在すら知らなかった。

問題が起こったのは3、4年生の頃であった。着ている服や色の違いでしか、性別をしていなかったボクは、次第に丸っこくなり、洗濯板みたいだった胸が、みるみる曲線を帯びて、声も明らかに変わったのを目の当たりにした時からだった。

これには、さすがのボクも驚かずにはいられなかった。昨日まで平気で一緒に遊んでいた相手と、遊べなくなった。去年の運動会で、手をつないでフォークダンスしていたのに、女の子に手を触れるだけで、電流が走る思いをしたものだ。

その時初めて、あの理科の時間に黒板に貼り付けられた絵の持つ意味を知った。丸っこくなっていく女の子を遠目に見ても、廊下を歩く女先生の後ろ姿を見ても、それまで正常に営まれていたと思われる自分の生活が、このことによって大きく蛇行していった。

ションベンが凍る。

2009.01.29 (Thu)

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以前読んだ椎名誠の紀行小説に、面白い話しがあった。何でも、シベリア辺りのツンドラ地帯では、冬、氷点下40度以下になることはザラにあるようで、そんな時、疾走する馬には雲がまとっているというのだ。

雲と言っても空の上に浮かぶ雲でもないし、天から舞い降りたペガサスでもない。要するに汗である。疾走する馬の身体から汗が噴き出し、ダイアモンドダストのように、瞬時に氷粒になるのだ。つまり、走っている間は常に汗が噴き出すから、雲をまとっているように見えるというわけだ。

水が氷になっていくメカニズムについては、よく分からない。真水と塩水では違うだろうし、汗や不純物が混じっていても、それなりに状況が変わる。普通、0度を境にして、氷点下になれば凍ると思われているが、決してそう単純なものではないらしい。

毎回話しているが、ボクの田舎は山陰の豪雪地帯である。が、だからといって、雲をまとうほど寒くはならない。記憶では、氷点下10度を下回ったことはなかったと思うし、あとは北海道で氷点下18度を経験したくらいである。

氷点下40度は想像できない。それこそ、どこかの石油会社のテレビコマーシャルで、バナナで五寸釘が打てますとか、バラの花が粉々に砕ける、あの状態かも知れない。

笑われそうだが、きっと、雪原で立ちションベンすれば、体外に出た瞬間にツララになってしまうだろう。切れの悪い人なら、先っちょが凍傷になる可能性だってある。

もちろんボクの田舎では、そんなことは一度もなかったが、ある大人は、どこからそんなネタを仕入れのか、吹雪の日に連れションしていたら、雪の上に何本もの氷柱ができたのだそうだ。

その氷柱たるや、ほうき型、釘型、うなぎ型と、様々な形で雪原に突き刺さっていたという。しかし、そのどれもがきれいに放物線を描いていたらしい。チャンチャン。

凍死の恐怖。

2009.01.25 (Sun)

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命のやり取りにつながる恐怖を味わったことが何度かあった。いま思えばだが。
最初は山スキーで吹雪に遭い、孤立してしまった時。二度目は、裏山の山頂からスキーで滑降、松の枝を引っ掛けて転落、一時、気を失った時。あとひとつも、やはり吹雪であった。吹雪ほど恐ろしいものはない。視界も、方角さえも分からなくなるのだから。

それは、小学生の2年か3年の頃だったか、その年の冬は、例年になく降雪量が記録的なもので、正月を迎えた頃には2メートルを越える積雪量であった。
心臓を患っていた母の容態が思わしくなく、毎年12月に入ると出稼ぎに行っていた父は、そのこともあって見合わせた。

吹雪が続いたある日、農作業の疲れも取れず毎日の看病で、疲労困憊の父は、とうとうダウンした。朝、うなされていた父は高熱を発して、頭から湯気を上げるほど意識朦朧の状態であった。もちろん風邪薬を無理矢理飲ませた。

病症の母は何を思ったか、とにかく栄養をつけなくてはと思ったことに違いない。豆腐と玉子を買いに行くよう、ボクに言いつけた。だが、ボクの村にはそれを売る店がない。仕方がないので、一斗缶と天秤棒を持って、ボクと妹は2キロ離れた山の上の隣町まで、雪の中を歩いて行くことになった。

空の一斗缶は、豆腐数丁と水を入れると急に重くなった。天秤棒にぶら下げた缶を、二人で担いで帰路についた。
帰り道は一段と吹雪が強くなり、たとえ通い慣れた道とはいえ、見えるのは足下ばかり。あとは勘を頼りにするしかなかった。

途中で何度も休みつつ、方角を確かめ、凍える手を揉みながら必死で雪を踏んだ。しかし、限界はすぐそこにあった。雪の少ない森の中で少し長めの休息したが、眠くなってしまった。とりあえず玉子だけを持たせて、妹を先に帰らせることにした。

だが、眠気は一向に去らない。寒い筈なのに、どういう訳か眠い。
ボクは缶の上に座って、眠気と格闘した。こんな寒い中で眠ってしまえば死ぬだろう、などと考えもしなかった。というより、凍死の概念すらなかったと思う。

気持ちのいい睡魔が徐々に、ボクの身体を覆い尽くそうとしていた。ウトウトウト・・・と、どれほど夢の中を彷徨っていただろう。その後の記憶が殆どない。一斗缶の中は、既に氷が張っていて、それを見て慌てた。肩にくい込む元凶の水を、ともかくその場に捨てたことだけは憶えている。

凍死する前は眠くなるということを知ったのは、ずっと後のことである。

部活の儀式

2008.12.25 (Thu)

チェード、デッ、デッ、デッ、デッ・・・
これが何を意味するのか、今でもよく分からない。

ボクが通っていた中学校は、温泉町のはずれの丘の上にあった。部活も盛んで相撲部などは近畿大会にも出場していたくらいだから、優秀な方だったと思う。スポーツクラブは通常、野球、バスケ、バレー、相撲などだが、陸上部はなかった。なかったけど、各クラブの優秀な人材を集めて、簡易的に結成されていた。それでもそこそこの成績を上げていた。


話しは少し変わるが、
たまたま知り合ったブログ友達(で、いいのかな?)は、何度かのコメントやりとりの内、実はボクの同級生だったことが分かり、驚いてしまった。偶然というのは恐ろしい。

「ほのぼのさん」というその人は、香住(兵庫県北部)の近隣で民宿の女将をやっているという。
 ほのぼの民宿「木船」だ。
 今はカニのシーズン。日本海では有数の漁場を持ち、新鮮な山海の幸に恵まれ、舌の肥えた常連客や、その名の通り「ほのぼの民宿」の女将目当てに訪れる客で、日々忙しい毎日を送っている様子。女将のブログは、見事に充実している。紹介しよう。
http://blog.livedoor.jp/kanipuro0710/

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「ほのぼのさん」とは中学生時代、一度も同じクラスになったことはないが、勉強もスポーツも優秀で、常に目立った存在であった。明るくて、頭の回転が早く、サバサバした性格は遠目であったとはいえ、何となくキラキラ輝いて見えた。

話しを戻す。
部活の話しだった。
ボクは中学入学と同時にバスケ部に入った。別に、憧れというか、目指すものはなかったが、早い話し友人に誘われて入ったのだった。

部活初日は、新入部員の紹介と見学だけで終わった。しかし次の日から、先輩の態度がガラリと変わった。親睦的な前日とは打って変わって、「虎の穴」が御開帳したのだ。ほんの数日前までは小学生の、まだまだ子ども同然だったのに、大男たちと同じトレーニングをしなければならなくなった。

誰かに支配されることなく過ごしてきたボクにとって、教師以外の誰かに命令されるなど、思っても見なかった。だから、先輩からランニング5キロとか、腹筋100回とか命令されることが、自分にとって納得できるものではなかった。

先輩に絶対服従を受け入れる、同級生の気持ちが分からなかった。何故、そんな理不尽な命令をきかなければいけないのか、である。ランニング5キロはともかく、腹筋100回は度肝を抜いた。ただでさえ100回は困難であろう。

一般的には二人一組で、片方が脚を持ってヘルプするやり方だが、我が部は違っていた。それも床の上ではなかった。体育館の側壁に梯子状に設けられた木製の棒の一番上に、両手でぶら下がり、機械体操の脚前挙の格好で両足を上げるというものであった。

下で先輩が見ているが、手を滑らせて落ちた時のフォローにはならない。一直線に床まで落下するのだから。案の定、新入部員の全員が、目的を達成しない内に根を上げてしまった。

 ストレッチと基礎トレの後は、いよいよ実践的なトレーニングである。先輩のパス回しは早くて強烈だった。縦横無尽に駆け抜け、目にも止まらないパス回しで、味方と衝突したり、突き指したり、受け損なってはコート10周を命ぜられた。このハードな練習で、3ヶ月経たない内に新入部員は3分の1にまで減った。

 部活にはひとつ妙なことがあった。3年間の部活で、とうとう最後まで分からなかったことである。それは、部活の始まりと終わりに部員全員が叫ぶかけ声であった。
 『チェード、デッ、デッ、デッ、デッ・・・』というものである。

 部員全員が円陣を組み、部員の一人が「チェード」と吠える。これに応じて、残る部員が「デッ」と応え、更に最初に音頭とった人が「デッ」と応える。部員全員が繰り返して、一巡するまで『チェード、デッ、デッ、デッ、デッ・・・』と、吠え続けるのであった。

チェード、デッ、デッ、デッ、デッ、デッ・・・

 「チェード」というのはどういう意味なのか。「デッ」の応答の意味は何なのか、今も分からない。日本人なら誰でも口にしてしまう「セーノ」のようなものかもしれないし、意思高揚や単なる儀式みたいなものかも知れない。

 それを、一度だけ先輩に聞いたことがある。しかし、先輩はそれに答えてくれなかった。応える必要はないし、そういうことは聞くべきではないとも。たぶん、その先輩もよく分からなかったのだろうと思う。

寄宿舎の貞子?

2008.12.10 (Wed)

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中国山地の北側、つまり山陰地方は大陸寒波の直撃を受ける、西日本の吹き溜まりである。地球温暖化の影響なのかどうか、近年はそれほどの積雪は見ないようだが、昭和40年代までは、一晩に50cm以上積もることもある豪雪地帯であった。

積もった雪はそのまま根雪になり、晴天だろうがなかろうが、殆ど融けることもなく降り重なり、しばしば二階の窓が玄関になった。こうなれば除雪車も、焼け石に水のようなもので、行き着くところ”陸の孤島”なのだ。

だが、いくら大量の雪が降ろうとおかまいなし、通学制限などあろう筈がない。インフルエンザの時以外は。
しかし中学校へは、そうはいかなかった。5k下った温泉町にある中学校へは、自転車はおろかバスも運休してしまう始末。したがって校区内にある辺境に点在する村からの、通学生のために宿泊施設があった。「寄宿舎」というものである。

雪が降り始める12月の中旬頃から3学期修了までの間、そこで集団生活するのである。月曜の朝早く家を出て、土曜の授業が終わると帰宅するのだ。

「寄宿舎」では、1年生から3年生まで150名(たぶん)ほどいたと思う。宿舎はL字型になっていた。宿泊棟は、二階建ての新館と平屋の旧館が併設され、新館の出入り口が渡り廊下になって、舎監棟につながっていた。舎監室の奥に自習室が数部屋、そして、その奥に調理場があった。

「寄宿舎」での生活は、厳しい規則で縛られていた。そのために、いかにも腕力の強そうな舎監がひとり派遣され、いつも竹刀を持って目を光らせていた。噂によれば、ボクシングと剣道の心得があったらしい。だから、その舎監とすれ違う度に、身の縮む思いがしたものだ。

新館の二階は女子専用、旧館を含める一階を男子が占領していた。各室、年長者が室長と決まっていた。室長は毎朝、点呼をとる。あらかじめ決められた当番が、食事の準備をする。帰宿はバラバラであったが、夕食時にも点呼がある。

その後は自由時間になるが、理由もなしに外出は許されないし、自習室に行くのも、いちいち行き先を告げなければならなかった。自習時間は、もちろん無駄話は一切禁じられ、むやみに他の部屋に行ってはならない。

ケンカなどは言語道断、鬼の舎監の前に直立不動させられ、手厳しい制裁(往復ビンタ)が待っていた。まるで軍隊並み(軍役の経験はないが)であった。ただ、いくら軍隊並みの生活とはいえ、そこは違う意味で暖かい団らんの雰囲気は十分感じられたし、それなりのハプニングも度々あった。

旧館の端に閉ざされた扉があった。閉ざされてはいたが、強引に開けようと思えば開けられないことはなかった。がしかし、誰も好き好んで開けようとはしなかった。扉の外には、枝振りのいい松の木が一本あった。舎監室への渡り廊下から、その松が見えた。

新館は二段ベッドが両側に四つずつ、その間に八人がけの大きな机がある。旧館は、5、6人分の和室である。廊下側にでかい押し入れ、その対面の窓側に、カウンター式の机があって、自習時間はそこにズラッと並んで自習するのである。

部屋割りは舎監が独断で決める。どの部屋で、誰と同室になろうが、一切文句が言えない。ただ、廊下の突き当たりの開かずの扉付近は、誰もが嫌がった。知らない1年生はともかく、入舎当日、部屋割り表を祈るように見たものである。

誰が言い始めたのか、誰がその噂を流したのか分からない。
噂というのは、その一本松に、あろうことか、首を吊って自殺した女の子がいたというものであった。以来、年明けのその夜に”貞子”らしき姿が現れ、松の枝には白い布が翻るという。

開かずの扉は、そういう子ども騙しのような伝説があったが、何故か年末の大掃除には全開されていた。

消えた戦艦大和

2008.12.05 (Fri)

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1945年4月7日、菊水作戦と称して沖縄戦線に向かうため、瀬戸内海を出航した「戦艦大和」は、米国軍の猛攻撃によって、14時23分、鹿児島県の坊ノ岬沖で撃沈された。

敗戦のショックや戦後の混乱を知らないボクたちは、戦争とは殆ど関わりのない山の奥の、のどかな山猿生活を謳歌していた。そんな中でも、時々行き交う米国のジープや、ホロ付きのトラックが、国道をわがもの顔で通過していった。

チューインガムとかギブミーチョコレートとねだることはなかったし、何しろ敗戦の悔しさなど、山猿のボクには知る由もなかった。また、知る必要もなかった。

米国主導型の”自由と民主主義”の精神による、マッカーサーの教育改革は、それまでの帝国主義精神を根こそぎひっくり返したという。しかし、それら教育現場での混乱は、昭和30年代半ばから受けた、ボクたちの時代は、既になかった。

あの時代を知っていた教師はいた筈だった。あの混乱を体験した人も、当然いた筈である。なのに、新時代の教育が見事なまでにカタチを変えていた。さもあの恐怖時代がなかったかのように。

だが今、新たな混乱の時代へ入ってしまったようだ。どこで、何を間違えてしまったのだろうか。

昭和30年代に入ると、米国風文化がボクたちの茶の間へ、怒濤のように押し寄せてきた。誕生日にはケーキを。そしてパン食にコーヒー、チョコレートやアイスクリーム、モンペ姿がスカートやズボンに。極めつけは、それまで全く知らなかったクリスマスである。

日本の多くの家庭は仏教徒であり、わが家もその宗派である真言宗なのに、何故だかクリスマスに浮かれているのだ。今思えば、摩訶不思議と言えなくもない。しかし、子どもたちにとって、クリスマスは実に歓迎すべきものに違いなかっただろう。

小雪ちらつく年の瀬。日本古来からある正月。そのワクワクする大イベントを待たずしての、舶来のクリスマスは、子ども心をも沸騰させる衝撃的なものであった。ボクたちにとって、宗教の違いなど全く関係ないのであった。

あれはいつの頃だっただろうか。初めてのクリスマスだったのか、それとも何度目かだったのか。それは、今の子どもたちには、到底理解できない感動があった。

「サンタクロースがやってくる」と言うのだ。クリスマスには、トナカイに乗ったサンタクロースがやってくる。ボクたちは、そう信じて疑わなかった。今なら、笑うだろうが。

「サンタクロースが来るから、早く寝ろ!」と親が急かせる。がしかし、そう言われるとますます眠れなくなる。何しろ興奮しているのだから。「サンタクロースはどこから来る?」と聞くと、「たぶん、エントツからやろ」と父親が言う。エントツは五右衛門風呂の後ろにあった。

「エントツは細いけど、入れるんやろか?」と言う。苦りきった顔で父親は、「サンタクロースはエントツが好きなんや」と、わけの分からないことを言った。「ふ~ん」とボク。
なかなか寝付けなかったボクは、いつの間にか夢の中であった。

次の朝、ボクの枕元にはきれいに包装した、当時発刊したばかりの少年サンデー(だったと思うが定かではない)が置かれてあった。親ではなく、サンタクロースに感謝した。ページが折れないように、丁寧に捲った。何色かに分かれた連載漫画と、その間にプロ野球のスター選手の写真、ターザンの情報が挿入されてあった。

ジャングルの中を木から木へ飛び移る。百獣のライオンや獣たちが、同じ方向へ走っている絵である。そして情報では、どこか外国の旅客機がジャングルに墜落して、一人の赤ん坊だけが助かった。その子どもは獣によって育てられ、やがてジャングル王になったというものであった。何でもすぐに信じてしまう子どもにとって、これほどの衝撃はなかったろう。

衝撃を受けたターザンより、もっと刺激的なものがあった。漫画に挟み込んであった附録である。二つ折りの厚紙でビニル袋に入っていた。
「戦艦大和」と印刷されてあった。大小切り込みのある数十片のピースの端に、番号が付けられていて、同封の説明書を見ながら組み立てるのである。もちろんセメダインもある。

漫画はともかく、「戦艦大和」の組み立てに没頭した。そして、くる日もくる日も「戦艦大和」を眺めて暮らした。

ところが、三学期が始まったある日、「戦艦大和」が突然、消えてしまったのである。家中探し回ったが、ついに見つからなかった。ショックであった。あれだけ苦心して組み立てたのに、忽然と消えたのである。坊ノ岬沖のできごとのように。

父親は「知らん」と言う。そして三つ上の姉がこっそり言った。「じいちゃんが風呂に焼べた」と。ボクは祖父を憎んだ。それから祖父との長い遺恨の日々が続いた。

暫くして姉は、言い忘れたかのように「漁が、勉強もせんと、遊んでばっかりや」と怒って、風呂の焚き付けにしたと付け加えた。

危うい遊び

2008.12.01 (Mon)

誰かが言った言葉に「怒りゃふくれる、叩きゃ泣く、殺しゃあ夜中に化けて出る」というのがあったが、あの頃のことを、後々思い出せば、まさにその通りだなあと苦笑する。とはいえ、女の子を叩いたこともなければ、まさか殺したことなどある筈はないが。

まったく興味がなかったのではない。だが、自分の生き方を否定するかのような異性の存在に、子どもながら、扱いにくいとは思っていたことは確かだ。

男も女も、いわば中性的なものであった小学生時代も、高学年になるにつれて異質な存在になっていった。言葉遣いも変わった。体つきも丸くなり、洗濯板のような胸もプックリしてきて、体育の時間などは目のやり場に困ったほどだった。

6年生の頃だったか、ボクらの教室の隣には、理科の実験室があった。あまり使うことのなかった薄暗い部屋であった。その教室の隅っこの腰板が一枚だけ外せるようになっていた。

実験の時以外は滅多なことで出入りすることはないのだが、ある日の体育の時間が始まる前のことである。男子がさっさと運動服に着替えて、おおかたの生徒が運動場に姿を消した。

しかしその後、クラス一の悪ガキTが、その理科室にボクを誘い込んだのだ。ボクはまた、そいつが何か言いがかりをつけて、ケンカしようと企んでいると勘違いをして身構えた。が、そうではなかった。

Tは理科室に入りなり、自分の口に手をやり、シーと言って、例の腰板のところへ引っ張っていった。Tは腰板の板と板の隙間に爪を当てて、クイっと持ち上げ、それを剥がしたのである。

壁の中は空洞になっていた。Tは、その空洞に顔を押し当てて、ボクに手招きをした。空間からは、細く光が漏れていた。Tに誘われるまま、ボクも穴の向こうを覗いた。女子生徒の姿が飛び込んだ。

それにしても、いつ、誰があの仕掛けを作ったのか分からない。ともかくこの一件は、幸い(?)にもバレることがなかった。
やがて幼稚な遊びも卒業して、中学に入った。中学に入ると、今まで霧にかかったような、愚鈍で山猿のような生活が一変した。

自分がいかに幼稚であったか思い知らされたのだ。入学して間もなく、まるで他人事のような「受験」という言葉が飛び交い、それこそ恐怖の中で、身の置き場所に困ったものである。

「今日から受験が始まっていると思え」などと、脅迫めいた言葉を連発する教師。周囲を見渡せば、小学生の時と違って妙に大人びた会話が、自分の頭の上を行ったり来たりし、これが同年代かと思うと、何か絶望的なモノが支配した。

大人への準備段階ともいえる、つまり、駅伝でいうなら第一走者みたいなものであっただろう。しかし、そういう恐怖観念の渦巻く微妙な小社会にあっても、まだまだ幼稚さの抜け切らない奴はいるものだ。

時をおかずして、クラス一の悪ガキMと子分格のYの3人がツルむようになった。ボクは再び、悪童への道を歩むことになったのである。その数々の行いについては甚だ赤面もので、物語るには40年以上経った今も、さすがに躊躇せざるを得ない。(つづきは後日?)

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市川雷蔵

2008.11.29 (Sat)

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「宙を飛び 風のように襲う」、「成るか 成らぬか 忍者の復讐」、「生かしてよいが その代わり信長を殺せ!」、「信長は人間ではない! 鬼だ!」。

モノクロ画面に飛び出す字幕。ガーッと唸って、銀幕の端から端へ、忍び装束に身を包んだ黒い影が飛ぶ。劇場に響く雷蔵の、あの独特の声。『忍びの者』、『続 忍びの者』である。
ボクは衝撃を受けた。そして、その時を境にしてチャンバラ映画の虜になってしまった。

当時の娯楽といえば、村祭りか、いわゆるドサマワリの大衆演劇やサーカス、体育館で行われた、かなり遅れてやってくる映画くらいであった。だから、隣町の温泉街の映画館まで足を運ぶまでは、もっぱらそういう巡回的な娯楽に甘んじていたのだ。

市川雷蔵といえば、柴田錬三郎の「眠り狂四郎」シリーズが、あまりにも有名である。赤茶けた頭髪と針のような鋭い眼光、そして黒の着流し。月明かりを背に、白い刃光が円を描いて風を切る。
おなじみのシーンだが、これに痺れたものはボクだけではなかろう。

「眠り狂四郎」ばかりが目立ち過ぎて、かつて忍者ものに登場していたなど、マニアックでなければ、知る人はいないのではないかと思う。

後々知ったことであるが、雷蔵が出演した忍者映画は、全部で8作であったようだ。その中のひとつ『忍びの者』を、ボクは観てしまった。そこには往年の俳優がズラリと登場していた。

現在でも活躍している藤村志保、山本圭や、今は亡き東野英治郎、山村聰、西村晃、岸田今日子である。

闇から闇へ風のように飛び、走る。敵の手によって投げられた爆薬で爆破される、転瞬、次の闇に走り去る黒い影。目まぐるしく躍動する。雷のような轟音。ボクは、字幕が並ぶ最後まで手に汗を握っていた。

かくして50年の長きにわたる、チャンバラ好き好き人生が始まったのである。

身体検査の恐怖

2008.11.26 (Wed)


下着など毎日替える必要はないと、うっかり口にしようものなら、たちどころに「不潔の権化」のレッテルを貼られてしまうとは・・・。

何故、下着は毎日変えなければならないのか? の問いに彼の人は言った。それは、「『風が吹けば、桶屋が儲かる』のと同じだ」と。

「何のことかさっぱり・・・」と言うと、要するに下着を毎日替え、洗濯することを思えば、確かに面倒臭いのだが、結果的に自分の身体を清潔にし、健康でいられることで、病院にかかる確率が低くなる。つまり、経済論まで発展したのだ。ふむふむ。

ところがだ、過去のボクは随分「不潔の権化」として優秀であったと思う。今思えば。
「またもや汚い話しか?」と、ひんしゅくを買ってしまいそうだが。

女の子を意識し始めた中学生の頃、「不潔の権化」は一変するのだが、それまでは下着など替えないのが当たり前だった。だから、ボクの下着(主にパンツ)の替えは、3~4着であったと思う。つまりこうだ。パンツ4着あれば、一週間1着と考えて、ほぼ一ヶ月で回せるというものである。

汗をかこうが、汚れようが、寝小便して黄色くなろうが、ウンコをつけていようが一行に構わなかった。それが普通であったし、誰も気にしてはいなかった。あることを除いては。

全員が似たようなものであったら、そのことについて話題にしなかったし、当然、セコいイジメなど皆無であった。

ところが、ひとつ大問題があった。年に何度かあった身体検査である。それは何の前触れもなく行われた。そういう行事があるなら、事前に替える習慣なりつけておくべきなのだが、何故かそうはしなかった。

既にこの時点で完璧な悪習慣になっていたために、ちょっとやそっとでは、面倒臭くて変えられないのである。

身体検査の目的は、子どもたちの健康と発育記録をつけることなのだが、同時に持ち物検査もしていた。ポケットに余計なものが入っていないか、学校で禁止されているものを持っていないか、である。

持ち物検査ではプレッシャーは感じていなかったが、身体検査の時は、さすがに緊張したものだ。言葉にはしないが、これは全員に共通することであったと思う。

「今日は、身体検査があります」と先生が言うと、お互い顔を見合わせて、密かに自分のパンツをチェックしたり、異様な空気に包まれた。
とはいえ、先生の前では脱衣拒否できないのだから。

先生が無理矢理脱がせるわけにはいかないから、子ども自ら脱ぐのを、ひたすら待つのである。その間、週十秒。何とも言えない異様な空気が流れた。

そして、おもむろにズボンを脱ぐ。途端に、甘ったるいような、饐えたたくあんのような複雑な臭いが入り交じり、先生は、思わず顔を背ける。中には、見事なまでの世界地図を刷り込んだものさえいた。

この「妙な空気」が、「恥ずかしい」と同義語であるとは気づきもしなかった。

我が春来小学校

2008.11.25 (Tue)

ボクが通っていた小学校は、温泉郷・湯村温泉から更に10km近く奥まった村にあった。春来小学校という。名前から受ける印象は、陽光に散る桜の花びらの画面に、オーバーラップしてしまいそうだが、春は遠い雪国である。

その名前の由来を、ある老人から聞いたことがある。「たぶん」と前置きをして、老人は「冬の長い雪国にとって、待ち遠しい春の到来を、ひたすら祈りながら名付けたのじゃろう」と言った。

春来小学校の歴史は古い。今から130余年前の明治8年(1875年)の終わりに、現在ある校舎から数百m離れた、万福寺というお寺に「寺子屋」として開かれたのが始まりだったようだ。

明治8年は維新直後の動乱の中である。長きにわたる徳川政権を打ち倒して維新を主導し、そして、あの西南戦争で破れ自刃した西郷隆盛の死の2年前であったのだから、いかに古いかだ。

その時代から80余年、ボクが入学した頃は、古びた二階建ての小さな木造校舎であった。相当年季ものであった。外観を包む外壁、年輪の部分だけが浮き出た横板も、床も腰板も天井も、教室の中のありとあらゆるものが黒く、そしてピカピカ光っていた。まるで時代劇の舞台装置のように。

古くて黒くて煤っぽいのに、何故光っていたのか、入学してすぐに、その理由が分かった。入学早々(たぶん入学式直後だったと思う)、学校の歴史のような話しから、どんな言い方だったかそこまで憶えていないが、「学校は勉学するだけではなく、精神を養う場でもある」と、そういう意味のことを聞いたような気がする。

そんな昔のことを何故憶えているかというと、入学したその日から、早速教室の雑巾がけをしたからである。担当教師が一段上の教壇に立って、黒光りした床や壁や机を、小さな手で拭いている新入生を見渡して、同じことを何度も言っていたからだ。

今、教師が生徒にそんなことを一言でも言えば、たちまち、バカなモンスター◯◯◯◯◯が「ウチの子は掃除夫じゃあない!」などと叫ぶだろう。が、何も分かってない人間に、何を解いても分かりはしないものだ。

ともかくランドセルに潰されたカメのような子どもたちに、身をもって分からせるためには、一番いいやり方だったと思う。自分の住む場所や、自分の使う道具は、自分で磨く。食べ物を粗末にする人間が、生産者の心や食べ物の大切さを、本質的な部分で分かっていないのと同じように。

もっと言えば、我慢しなくなった人、あるいは我慢させてもらえなかった人間は、後々、すぐに挫折し、被害妄想の化け物になるか、デリカシーとは無縁の人間になる傾向がある。

つい横道にそれてしまったが、それはさておきその頃はまだ、ちゃんとした幼稚園さえなかった。まったくなかったのではない。仮設的に体育館の端に、ほんの数ヶ月だけあった。もちろんボクも、その数ヶ月の間いたわけだ。

湯村温泉から越してきた園長先生はきれいであった。既に中学生になっていた長男を含めて3人の息子たちを連れての、典型的な母子家庭であった。

掘建て小屋のような仮設内での数ヶ月は、濃密な体験であったと思う。まあ、このことは後日述べるとして、何しろ、後々自然界のあらゆるものに興味をもち始めたことや、野山の徘徊には実に役立ったからだ。


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