昔遊びと悪ガキ

キラキラとした別世界。・・・今考えると、これほど外の世界が魅力的に感じた時代はなかった。

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ほっぺたが落ちる…シリーズ第9弾(干し柿)

2014.12.07 (Sun)

何と言ったらいいのか分からない。

決して甘くはないし、妙な後味が全くない。

一口食べると、ほわっとした香りと一緒に、何十年もの

古い記憶が突然よぎった。

でも、どういう記憶なのかはっきりしない。

はっきりしないけど、たぶん美味しかった食べ物には違いない。

P1080774

ヨメは「干し柿なんて嫌いだ」と、前から言っていた。

基本的に木になる「柿」が嫌いだから、干したものもそのようだ。

オレは小さい頃から「柿」も「干し柿」も好きで

毎年食べていた。結婚してからはあまりないけど。

それがどうだ。

いっぺん試しに食べてみろ!と

ほのぼの民宿「木船」さんから送って頂いた「干し柿」を

ヨメに食べさせてみた。

で、反応は・・・。満面の笑みで「美味しいじゃん」

確かに美味しいかった。

けど、単純に味覚だけの問題じゃないと思う。

昔食べた懐かしい味とかいうものと少し違うような。

「美味しいものを食べると幸せになる」という

あれによく似ている。





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ほっぺたが落ちる…シリーズ第7弾(ミョウガの醬油漬け)

2014.09.21 (Sun)

昨日は「ミョウガの醬油漬け」を作りました。

友人から頂いた野生のミョウガ。

野生と言いましたけど、スーパーで売っているもの

つまり、人工的に栽培しているもの以外は、ほぼ野生です。

ちょっと小振りで、香りも味もクセがある。

クセのあるのは好きなんですが、

あり過ぎるとまた、ほかの食材が負けてしまいます。

それで一度、スプーン半分ほどの塩でもんでから

その中に沸騰した湯をかけます。

すぐに湯を切って、冷水をかけて冷やします。

最後に、出汁醬油とみりんを少々。

空ビンに入れて、一晩漬け込みます。

早速今朝頂きました。

myouga

素晴らしい!

ほっぺたが落ちました。

自然に飲み込まれた。

2014.09.15 (Mon)

長〜い間うっとうしい存在だった山。

半年交渉して、ようやく手放せそうです。

とりあえず状態を確認して、今度、来週にまた手続きに行ってきます。

yama

ここは元々田んぼでしたが、果樹園になるようです。

それからその上の山。

さすがにこの中には入れませんでした。

yama2

実はこの下も所有地ですが、ご覧の通り。

yama3

国道を挟んで田んぼがあり、川を挟んで山なのですが、

雑木に覆われ、川が見えません。

二束三文でしょうが、固定資産税対称の厄介者。

来週、うまくいくでしょうか。

昔遊び図鑑

2014.03.28 (Fri)

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2010.11.25 (Thu)

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ひんしゅく「田の字ケン」

2008.09.04 (Thu)

tanojiken2.jpg

カタチこそ違うが、前回紹介した「花ケン(ひまわりケン)」と、まったく同じルールの、この「田の字ケン」。どちらが元祖なのか、正直、ボクは分からない。
ただ、ボクの知る「田の字ケン」の全盛期、年長の人たちの間で、それ以前に「花ケン」と呼ばれる遊びがあったらしいと聞く。だから、大雑把であるが「花ケン」の方が古いのではないかと思われる。

ともあれ、「エスケン」同様、大人たちのひんしゅくを買った「田の字ケン」だが、もとはと言えば、学校の体育の時間に教わったという記憶がある。農家の庭はどの家庭も広くできている。が、「エスケン」や「田の字ケン」をするためにあるのではない。忙しい時には耕耘機が出入りするし、作物を運んだり集積したりする場所となる。そんな時に、庭を占領してしまうのだから、ひんしゅくを買っても仕方がないのだ。

ただ遊ぶだけなら、どこか別の家に移れば済むのだが、その家にテレビがあるとなると(当時、テレビ我ある家は裕福な家だけであった)、学校から帰ると直接、その家に行って、縁側に鞄を置いたまま遊び始めるのだ。そうして夕方まで騒ぎ、目当ての番組が始まると、身体中にホコリをかぶったガキどもが、縁側からドッと侵入してくるのである。やれやれ。

「田の字ケン」のルール
基本的には「花ケン(ひまわりケン)」と同じなので、この場合、省きます。

元祖「花ケン」

2008.08.11 (Mon)

はなけん.gif

九州の一部の地方で「ひまわりケン」と呼ばれていたという遊びである。実は、当時「Sケン」と「田の字ケン(次回紹介)」がともに主流になる、少し前の一時期、我が村にも「花ケン」という呼び方であったという。

だからボクには経験がない。しかし形といいルールといい、「Sケン」や特に「田の字ケン」の原形ではないかと思える。どれが原形かはともかく、その遊びを編み出したことや、また、それを進化させ、より面白く変化させていった昔の子どもたちの創造力と応用力は、先進国日本は成るべくしてなったのだという気がしている。

「花ケン」のルール」

★が守備側で、☆が攻撃側。
①☆の攻撃側は、黄色いエリア内を決められた回数を
 周回する。(10周程度)
 ただし、全員同じ方向で周回しなければならない。
②守備側★は、攻撃側☆の身体にタッチして、周回の邪魔を
 する。★が支配できる範囲は基本的には中央(ブルー)
 ですが、外側に「島(グリーン)」を作り、中央と「島」を
 行き来しながら、☆にタッチすることも許される。
③★にタッチされた☆は、その時点でアウト。
 (最初にタッチされた人が、次回、守備★になる)
④★が☆全員タッチすれば、攻守交代。誰か一人でも、
 決められた回数周回すると、再び★が守備をしなければ
 ならない。
⑤また、イレギュラーなルールとして、守備★を2人にしても
 よい。

クセになるエスケン

2008.08.01 (Fri)

esuken-A2.gif

地面に大きなSの字を書き、二つのグループに分かれて、お互い相手の陣地(AまたはB)を攻略するという遊び。ただし、「安全地帯」である敵の陣地も含むSの字内と「島(Sの字の外にある小さなスペース)」以外では、ケンケンでなければなりません。「島」の数と位置は、特に決まっていません。

①Sの字の★印から出入りし、外を回って敵の★印から中へ
 入り、陣地(AまたはB)を攻略すると勝ち。
 ただし、「安全地帯」の外で両足をつくとその場でアウト
 になり、ゲームが終わるまで復活はありません。
②敵の陣地では両足をついてもよいが、足以外が地についた
 らアウトになります(自分の陣地内では転んでもOK)。
③敵の陣地でも自分の陣地でも、ラインをまたいで外に
 出るとアウトになります。
④敵の誰かを外の世界に誘って、ケンケンでの一騎打ちを
 し、追い掛けて押し倒したり、お互い、攻防戦があります。
⑤敵の陣地内で守備が堅い時、複数人で攻め、
 誰かが囮(おとり)になっている間に守備側の隙をついて
 攻略することもできます。

※そのほかに「花ケン」や「田の字ケン」というのがあり
 ます。これらは「エスケン」のような陣取りゲームでは
 なく、決められた数を周回するだけのゲームです。
 (詳しくは後日にて)

「昔遊び図鑑」の紹介

2008.07.04 (Fri)

(紹介文:転記)
すごい。「ビーダマ」「メンコ」「ベイゴマ」「カン蹴り」とか、いろいろな昔の遊びが、図解されている。遊びのスタイルが激変した今となっては、資料的にも価値がありそうな。チキンラーメンがご馳走だったとか、貧しかった弁当事情とか、当時30円の少年サンデーとか、西部劇ブームとか、肥溜めに落ちたとか、生々しいエピソードもイイ。「糸巻き戦車」「梅干の笛」「輪転がし」「竹馬」「竹とんぼ」「竹スキー」とか自作系の遊びも掲載されている。採集系の遊びも多い。「めだか捕り」「ザリガニ捕り」は分かるけど、「サガリ漁」「ヤス漁」までくるともう遊びというか仕事じゃないかと(笑)。地蜂を捕まえて作った「ハチの幼虫の焚き込みご飯」(ご馳走らしい)とか、「スズメ捕り」も「焼き鳥にするとこれがまた旨い」とか。スズメは京都で焼き鳥にして売られているけど、遊びと書かれるとサバイバルすぎて引いてしまう…「紙鉄砲」「吹き矢」「雪の落とし穴」「戦争ごっこ」「チャンバラごっこ」「ターザンごっこ」「忍者ごっこ」のアクティブな遊びには、ページ隅に「*危険が伴います。くれぐれも注意してください」の一文。目次にも「~事故などの責任は当方で負いかねます」。こういう意味でもすごい本。

●いろいろな昔の遊び
http://www.ab.cyberhome.ne.jp/~m-nbck/book_rev/book_robo/book_robo_rev.htm

●昭和館ホームページ
http://www.showakan.go.jp/4book/lib03.html
mukasiasobi2.gif

ビー玉

2008.06.27 (Fri)

太陽の光を透してキラキラと光った時、宝石でも見ているような気がした。
ラムネのビンのくびれた部分にある、あのガラス玉のことで、ビー玉遊びのことを、ボクの田舎では「ラムネ」と呼んでいた。

ビー玉は、文具店の奥でも駄菓子と混じって売られてもいたが、ボクが一番楽しみにしていたのは、お盆の送り日にあるお祭りの、霊を送る行事・施餓鬼で行われた夜店だった。神社の境内のド真ん中に櫓が組まれ、それを取り囲むように屋台が並んでいた。

ビー玉、メンコ、おもちゃのピストルと赤い渦巻き状の紙に火薬を貼り付けた煙硝弾、綿菓子、クロボー、リンゴ飴・・・。わずかな小遣い銭を握りしめ、ニッキ棒をなめながら、何十周も屋台を回った。


ビー玉のルール
(1)1の穴からA線に向かってビー玉を投げる。
  線をオーバーせずに一番近い者から順にプレーできる。
  (aが近いので、a→b→cの順に)
(2)A線から1に向かって順に投げる。1投目はどんな投げ
  方でもかまいませんが、線を踏まないように。
(3)A線から1まで約2m、各穴の間隔は約1.5m。1の穴か
  らは、写真の持ち方で、次の穴に向かって玉を弾く。
  1→2→3→2→4→2→5→2→3→2→4→2→1→A線の順に回る。
(4)たとえばa→b→cの順番に行ってcが入ったとします。
  その場合は続けてプレーできる。
(5)また、穴の近くにあるaを自分の玉で弾き飛ばし、
  遠くへ追いやることができる。そして、再び穴から次の
  穴へ再スタートできる。ただしaに当たらなかったら、
  止まった位置で順番を待つ。
(6)cは穴の近くにあるaかbを自分の玉を使って穴に落とす
  ことができる。
  落とされた玉は休み(穴の中で順番を待つ)となる。
  穴1~5は休みの回数。つまり、3の穴は3回休みという
  ことだ。
  自分の玉が入っても休みになる。
(7)全部の穴をクリアして、A線に戻ることができたら、
  次は無敵になる。A線から再度放たれた玉は、プレー中
  の玉を追いかけ、当てるとその場でゲットできる。
  残された玉は、ひたすら逃げながらのプレーになる。
ビー玉の絵.gif

月刊・ひろば_7月号

2008.06.26 (Thu)

月刊・ひろば「昔の遊び再発見_7月号」ができました。
今回は「ビー玉」を紹介しています。
hiroba--7.jpg

(JISHA)

「石なんご」と西行法師。

2008.04.21 (Mon)

子どもの頃に聞いた言葉が、後々になって間違いであったという話しは、向田邦子の「眠る盃」にたとえて何度かしたが、日常的に使う言葉や、一般常識でない限り、後年になっても曖昧さを残すことが多い。そういう意味において、この「石なんご」と呼ばれる遊びも、最近まで分からなかったもののひとつである。

この「石なんご」という呼び方であるが、誰かが言っていたので、ボクも、何の疑いもなくそう呼んでいたに過ぎなく、また、女の子の遊びには興味がなかったので、記憶の中から完全に消えてしまっていたのだ。

「石なんご」だったのか、それとも「石なんぼ」だったのか、ボクなりに語源を考えてみた。遊びの性格上、石何個が単純に「石なんご」となったように思うし、関西風に数字を数える時に使う「なんぼ」が合わさって、本当は「石なんぼ」が正しかったのか、いずれにしろごく狭い地域での遊びとしか思っていなかった。

ところが、色々調べてみて驚くべき事実が分かった。「石なんぼ」ではなく「石なんご」は確かにあった。その中の書物には、千数百年前の平安時代の和歌にいくつか登場していた。代表的なものが、『石なごの たまの落ちくるほどなさに 過ぐる月日は かはりやはする』とうたわれた西行法師の和歌であった。

「石なご」が、いつしか、そしてどこかの地方で「石なんご」と呼ばれるようになり、しかももっと驚くべきことは、世界百カ国以上でこの遊びが伝承されているという事実であった。

ボクが生まれた但馬地方では、昭和30年代前半に、ごく短期間流行った遊びである。同じ遊びでも、地方によってルールは若干異なるもの。
遊び方そのものは単純なもので、ビー玉大の石を地面に散らし、参加者それぞれが「親石」を1個づつ持ち、決められた順でプレイするものである。

まず、「親石」を高く放り上げ、その石が落ちてくる間に散らした石を拾い、落ちてくる「親石」をキャッチする。拾う石は、1個から2個3個と、1個づつ増やしていき、失敗した時点で次の人に交替するというルールである。

地面に散らす石の数は決められていない。多ければ多いほど面白いし、散らす範囲が広ければ、それだけ難易度が高くなるもの。
こんな単純な遊びの中にも、巧妙な戦略が見えた。放り上げた「親石」が落ちてくる間は短く、限られた瞬間であるから、拾い上げる石も、そうそう広範囲に拾い集めることは難しい。

上手い人になると、その難しさを利用して、他の人に拾いにくくさせるために、接近している石を更に散らすという、意地の悪い遊びでもあった。

言い忘れたが、プレイ中、放り上げた「親石」をキャッチし損なって地面に落ちない限り、キャッチしては放り上げると、何度でも繰り返すことが許されている。
ただし、地面に散らした石の範囲に制限がないわけではない。参加人数にもよるが、プレイ前にあらかじめ範囲を決めて、サークルを書いておくことがルールである。

したがって、意地悪く散らしても、そのサークル外に出てしまうとペナルティが与えられた。ペナルティは、一度外に出せば1回パス。2度目は2回パスと、どんどん増えていくから注意することだ。

ボクは、この遊びをした記憶が殆どない。そもそもこの遊びは女の子の遊びであったことと、お手玉遊びなどで鍛えた女の子は、この手の遊びに滅法強かったので、負けず嫌いのボクは、その中に入ることはまずなかったのだ。

叔父の中の戦争――(34)

2008.02.04 (Mon)

大連駅を一歩出たところで、章吾は立ちすくんだ。頭ひとつ飛び出した大きなソ連兵が、通りの十メートルおきに銃を持って警戒していた。大通りでは隊列を組んで行進している。股からつま先までを真直ぐ跳ね上げながら行進する姿は、物々しく威圧感を与えた。

一旦出た駅を躊躇しながら駅舎へ引き返しかけた時、ソ連兵が一気に詰め寄り、五人は両脇から抱え込まれた。あっという間であった。武器も持たず、その上、栄養失調で乞食同然の章吾たちには、抵抗する体力も、気力も残されていない。

〈ワシたちはあの時、ロスケのトラックに放り込まれて、シベリアに連れていかれても不思議やなかった。何十万人の日本人が抑留されてしまったいう話しを嫌というほど聞かされてきたからの。他の者たちもみんな覚悟したやろ思う。“もう、これでお終いや”いうて。そやし、運が良かったんやな〉

〈何故なんか、俺の方がソ連兵に聞きたいもんですね。六十万人もシベリアへ、騙して連れて行って、何故五人は連れて行かれへんかったのか?〉
俺は冗談抜きで知りたかった。

〈ワシも知らんな。何回も言っとるようにや、ワシは死ぬ気ーやったから、銃でパンパンと打ち殺されてもいいんや思とったが、シベリア行くのんだけは絶対嫌やった。そやかて、あない寒っぶいとこ、何が悲しいて行かなあかんのや。寒っぶいであそこーは。満州かて零下三十度四十度は珍しあらへんけど、それよりごっつ寒っぶいんや。立ちションベンかて、さっさと済まさんと、やっとる間に凍ってまいよる。ションベンがチンチンから出る内に凍って、パラパラと音立てて落ちよる〉

オーバーな話しだったけれど、そういう話しは何度か聞いたことがあった。だが、あの気難しい叔父の口からそんな話しが出るとは、ショックというか、その意外性が可笑しくてたまらなかった。

ソ連兵に連行された章吾たちは、日本人収容所に放り込まれた。そこには、空ろな目で生死を彷徨う敗残兵が固まり、民間人は例外なくボロボロの衣服や、酷いものはその上から毛布を巻いて紐で縛っている。とにかくありったけのものを身に着けていなくては、この寒さはどうにもならなかった。

収容所の中では、毎日のように死人が出た。凍死や餓死、栄養失調による病死が主な死因であったが、追い詰められた精神を逃避させるために、アヘンに手を染める人たちも現れた。ただ、そういう人たちは人知れず、ひとり、またひとりと姿を消していった。

銃弾の嵐の中で、何度も覚悟した。耳もとを弾風がかすめる瞬間、凍りつく。そして、後方の戦友を射抜く。絶叫を上げるヒマもなく、脳ミソが飛び散る。身体が硬直して動かない。仲間の命が終わる瞬間。今まで、ついそこで息をしていた戦友が、棒を倒したようにドッと音をたてて、泥まみれの身体があっという間に白く、冷たくなっていく。

章吾はそれでも、とうとうここまで生き延びることができた。
祖国を護るため、家族を護るため、そして陛下の御為にという。何故? 何故そのために、無謀な戦いを続け、たったひとつしかない大切な命を、安々と捨てなければならなかったのか、章吾には理解できなかった。章吾だけではなかった筈だ。そもそも“お国のため”と誰が言い始めたのか? 前線で傷付いた兵士を捨てて、終戦を待たずに逃走したのは、一体誰だったのか?

   つづく

2008.01.01 (Tue)

新年、明けましておめでとうございます。

幸せ多き一年でありますように。


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ほおずきの風船

2007.09.05 (Wed)

お盆が待ち遠しかった。お盆は面白いできごとがたくさん待っていた。親戚や都会で仕事をしていた人たちが帰省して来て村じゅう華やぎ、家々を廻るとお土産のお裾分けに与ったり、少なくともお盆や正月は、子どもにとって天国であった。

隣に誰が住んでいるのか分からない都会暮しと違って、多少悪ガキであっても村の宝として護ってくれていたと思う。自分の子も他所の子も分け隔てなく可愛がり、そして叱り、場合によっては殴られもした。大人たちに言わせると、煩わしいところもあったようだが。

「夏休みの友(毎年配られる5教科分の宿題帳)」がまだ、殆ど手付かずという後ろめたさはあったものの、お盆の3日間だけは特別で、堂々と遊べた。少しばかりの悪さをしても許されたのだ。

普段、仏壇は閉じられていたが、お盆の間は観音扉が全開し、回り灯篭に挟まれた雛壇に数々のお供物や花が飾られていた。それは3日の間に徐々に増えていった。雛壇の両脇には、赤い実をつけた「ほおずき」が、枝ごと飾られてた。

ほおずきの風船で遊ぶ

(1) 赤い実を取り出し、割れないように丁寧に揉む。
(2) 柔らかくなったら、ヘタの部分に穴を開け、中の種と汁を全部取り出すと、
   ほおずきの風船ができる。
(3) ほおずきの風船の穴を下にして吹き上げると、ヒョロヒョロと浮かぶ。
(4) ほおずき風船の穴を下唇に乗せ、上の歯で静かに押すと、面白い音が出る。

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サガリ漁

2007.07.16 (Mon)

お盆前になると村じゅうの墓を総がかりで掃除が行われた。これは毎年の行事である。それは、仏を迎えることが大きな理由であったが、同時に都会で働いている家族や親戚を迎えるためでもあった。

お盆になると家族全員で線香とたくさんの花を抱え、また、村じゅうの墓参りをして廻るのだ。ボクはウキウキしてそれを手伝った。だが墓参りが好きで手伝ったのではない。決められた行事が終われば、後は堂々と遊べるからである。

これは年の暮れにする正月の準備と同様、お盆の3日間は宿題や家の手伝いのことは一切触れなくていいし、それより家族で川遊びができるからでもあった。中でも、父親が中心になってする「サガリ漁」や「火振り漁」の思い出は多い。

この「サガリ漁」は、盆に限らず年中していたが、特に盆には家族ぐるみで大掛かりにやった。あらかじめ造っておいた仕掛け場に、その日の夕方サガリを仕掛け、あくる朝早く仕掛けを引き上げる。ハヤ、アブラハヤ、ウグイ、ナマズ、ドジョウ・・・。時にはウナギも入っていた。

カニの中でハサミの所に真っ黒い毛が生えて、大人の両手ほどある大きな「モクズガニ」が捕れた時は最高であった。モクズガニは味噌汁の中に入れて煮たが、甲羅を剥がすと真っ赤な卵の塊があり、後に食した数多くの、どのカニより美味であった。

サガリの仕掛け作り

(1) 1cm幅くらいで竹を割り、更に薄く裂いていく。
(2) 割った竹を膝の上に乗せ、ナタを固定して竹の方をスライドさせて削る。
(3) 骨を放射状に組み、底の部分から、渦巻き状に編んでいく。
(4) 交互に差し込みながら編む。
(5) 継ぎ足しは骨の裏で重ねる。
(6) 上部の輪は、親篭の太さが決まった段階で作り、凧糸で止める。
(7) 親篭の大きさに合わせて輪を作りる。(凧糸でしばる)
(8) (3)で作った親篭の上部を同じ長さに切り揃え、(6)の輪に掛け、
   凧糸でしっかりしばる。
(9) (8)で折り返した骨を凧糸でしばる時、絵のように骨と骨の間でクロスさせる。
   (骨と骨の隙間を一定にするため)

(10)臭いに誘われてサガリに入ってくる。
(11)サガリの「親篭」中には、ミミズなどの臭いのあるものを入れる。
(12)一旦入ると「モドリ」が邪魔をして出られない。
(13)「モドリ」を取り外し、エモノを出す。
   ハヤ、アブラハヤ、ウナギ、ナマズ、モクズガニなどが捕れた。

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鮎のひっかけ

2007.07.09 (Mon)

鮎はそれぞれに縄張りを持っており、自分の縄張りにある岩苔をエサに棲息している。「トモ釣り」や「ひっかけ」は、その習性を利用して捕るものだ。
鮎は、侵入して来た敵(縄張りの外から入ってくる魚)に対して攻撃をする習性があり、その習性を利用したのが「トモ釣り」。

「ひっかけ」という方法は、特に人間の気配を感ずると川上に逃げる習性がある。その習性を利用して、岩の陰に隠れている鮎の川下から回り、ひっかけ竿を川上に向けて捕る方法である。水中めがねで様子を見ながら、そっと下流から近付き、岩苔を食べている鮎の前から掛ける。

ひっかけ(道具)を作る

(1) 鮎のトモ釣り用のハリをイカリ状に3本重ね、接着剤で固定した後、
   本結びで道糸(テグス)を結ぶ。
(2) 道糸を上方向に引っ張ると絞まる。
(3) 「テグス止め」は、変型しにくいプラスチックなどで。
(4) テグスを通す穴。(竹に3mmの穴を開け、テグスが切れないように角を削っておく)
(5) テグスは、竹のサヤの中を通す。
(6) 獲物が掛かった時、ハリが抜けるようにサヤに差し込んでおく。
(7) ゴムで止めた「テグス止め」は、獲物が掛かると抜けて、下の穴(4)で止まる。


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「ハエ捕り」を使った漁法

2007.07.02 (Mon)

花火のような紙筒の中にベタベタした渦巻き状の紙が入っていて、それを引っ張るとハエ捕り紙がビーッと出てくる。ハエ捕り紙は天井から吊るされて、家の中で暴れたりすると頭にベタッと貼り付いてなかなか剥がせなかった。こんな経験をしたことのある人はいるだろう。

何しろ今の除菌大国日本と違い、その頃はハエと一緒に暮らしていたようなものだったので、ハエ捕り紙を始め「ハエ叩き」、ハエ除け用の「線香」、ちゃぶ台を覆う「ハエ避けネット」・・・など、どの家庭でもハエ除けのためのグッズを置いていた。

このガラス製の「ハエ捕り器」を、ボクは実際に使ったことはないが、どこかで見たことがあった。高価なことに加えすぐ壊れるので、安価なハエ捕り紙に代わったのであろう。

ハエ捕りを使った漁法

こぬか漁の方法と同じで、確か昭和40年前後まで使われていた、ガラスの容器で作られた「ハエ捕り」を利用した漁法である。
「ハエ捕り」は通常、水を入れていたが、その場所にぬかダンゴを入れて川底に沈めた。
上部の入り口は麻布で覆い、ぬかが徐々に拡散していくと、魚が集まってくる。下の入り口から侵入した魚は、出口を見つけられなくなるのだ。

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こぬか漁の夏

2007.06.29 (Fri)

日本海に注ぐ岸田川の支流・春来川である。その春来川の源流に程近いこの辺りは、川が暴れる度にその表情を変えていた。梅雨時や台風が来るといつもそうであった。

毎年のように表情を変えるその川が、ボクは大好きであった。だから、徘徊の多くは川で始まる。その川の真ん中に、畳一帖ほどの広さの薄茶色の丸い岩があった。そこには手の平大の窪みがあって、いつも水が溜まっていた。

その大岩を取り巻く、ごつごつした大小の岩がパズルをひっくり返したように散乱し、梅雨の合間の強烈な日射しを受けて、まるで宝石のように輝いていた。ボクは、もうすぐ訪れるその鮮やかな季節を、ワクワクして待った。

岩の隙間が深い草に覆われる。その青さに絡むように、鏡のような水がゆっくりと流れる。そして、岩と岩の間の剣のような水が、再び岩に砕け、深い水たまりをつくる。そしてまた、下流へと流れた。

急勾配の谷あいが幾重にも重なり、遥か向うの薄紫色した遠景が上空の白に溶け、眩しい陽光が辺り一面を覆い尽くす。
音もなく流れる水。
川底の砂が湧き水に揺れる。
時折、気泡がポコポコと水面で弾けた。

ゴツゴツした岩のジャングル。その所々に深くて蒼い宇宙がある。その宇宙にはアブラハヤやウグイが群れて、上からそっと覗くと真っ黒に固まって見えることがあった。素足で川に入ると魚たちが寄って来て、ツンツンと足をつっ突くのが分かったほどである。

こぬか漁の仕掛け

水の流れの強さによって、入れ物のカタチを変える。
(1) バケツような丈高のものは、比較的水の流れが緩やかな場合に。
   もちろん(2)でもよい。
(2) 逆に流れが早い場合は、川底を掘ってから浅い容れ物を埋めるとよい。
(3) 容れ物の底にエサを置く。餌は、味噌に酒を混ぜたものをフライパンで炒り、ぬかと 
   練り合せたもの。
(4) 容れ物の上部を麻布で蓋をし、一ケ所だけ3~4cm程度の穴を開けておく。
(5) 水が麻布を通して侵入しエサが溶けると、徐々に容れ物から出て、魚を誘う。

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箱めがねでヤス漁

2007.06.26 (Tue)

箱めがねのガラスには、三次元総天然色の世界が映った。まるで動く生物図鑑だった。白い石、黒い石、鮮やかな緑の苔、茶褐色の苔が水の流れに揺らぎ、石の隙間で顔をのぞかせる魚がいた。“どんこ”が川底をすばしっこく走る。おたまじゃくしの群れがあり、ゲンゴロウ、ガムシ、タガメたちが川底と水面を忙しく往復していた。

箱めがねの作り方
(1) 4枚の板それぞれの端にガラスを差し込む溝を削る。
(2) 角を釘で固定させてL字型を作り、ガラスを差し込む。
(3) 同じように他の2面を合わせて角を釘で固める。
(4) 最後に、水が入らないように箱の角とガラスの目地部分に、ロウか松ヤニを塗る。

ヤスの作り方
(5) 鋼鉄製の針金。20~25cmの3本を用意する。
(6) それぞれの先を金鎚で平たくし、ヤスリで尖らす。
矢の先を、より硬くするために、焼き入れすることもある。
(7) 3本の矢を板で固定し、柄の部分を針金で縛る。
(8) 竹に差し込み、竹の上から、更に針金で縛る。

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なで漁

2007.06.14 (Thu)

国道の改修工事で既にボクの生家は無くなっているが、何年振りかに立ち寄った時、毎日のように徘徊していたあのキレイな川は、無機質なコンクリートで護岸され、見る陰も無かった。豊富だった魚影も無かった。
その川は、かつて色々な種類の魚がいた。今ほど警戒心がなかったのか人間同様に飢えていたのか、どの川でも簡単な仕掛けで捕れた。

進化する魚・・・
人間の本能と同じ、早朝と夕方が「喰い」がイイとよく言われて来たが、最近聞いた話によると、どうもその話しには怪しいところがあるらしい。まぁ、それだけ魚の生態も複雑に進化してきたと言うことだろう。分かりやすく言えば、農薬などの化学物質や生活廃水もさることながら、川に流れ込む栄養分は、我々飽食人間の世界と同様、既に栄養過多気味だと言うことだ。だから「お腹がすく頃だろう」と思っても、釣れないことが多い。

また、川だからといってむやみに釣り糸を垂れても上手くいかない。魚が隠れそうな川の形状、流れに変化のある場所や、魚のエサになりそうな「藻」とか川虫(トンボなどの幼虫)がいるかどうか、確かめてみることもイイ方法だ。

「見える魚は釣れない」と言われるように、魚が見えると言うことは魚も人間を見ていると思った方がイイ。更に音だ。「水の中は聞こえないだろう」と思うのは大間違い。水の中は空気中より、共鳴してよく聞こえるらしい。まずは魚をよく観察して見ることと、魚がエサにしていると思われているカゲロウや、石の裏とかにへばりつくように住みつく虫も観察してみよう。

なで「撫で」漁・・・
文字通り石を撫でるようにして捕る漁法だ。魚の生態は種類によっても季節によっても様々だが、一定して言えることは石や草の陰、川に生える草などの根元、石の裏と、流れが変わる接点を中心に棲息している。

この「なで漁」の場合は、石の下に隠れている魚を手で捕る漁法だ。ただ、知っての通り魚は人の気配に敏感で、その上ヌルヌルして捕まえにくい。石の後ろからソッと近付き、左右から出口をふさぐようにして捕まえる。魚に触れても決して慌てず、エラと胸ビレの間を素早く掴む。しかし、慣れるには少し時間がかかるだろう。

また、魚には苔の生えていない白い石に集まる不思議な習性があることを知っているだろうか。特に鮎は、その石に卵を産みつける習性があると言う。

(1) 石や草の陰になり、中が見えにくくなっている所が魚の住処になりやすい。
   石の下の隙間、葦などの草の根元は、絶好の隠れ家だ。
(2) 水の流れが複雑になっていたり、逆向きになっている所も魚が集まりやすい。
   草を流して、流れを確かめてみるとよい。
(3) 藻の生えていない白い石に集まりやすい。特に「鮎」は、
   その白い石に卵を産みつける習性があるらしい。

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帆掛け船

2007.06.05 (Tue)

大阪の曾根崎の繁華街にある玩具屋で見つけた中に、ブリキ製のあの懐かしい金魚やゼンマイ仕掛けのポンポン船が、埃まみれの中に、まるでガラクタ同然で置かれてあった。手に取ってみると、それが片手にスッポリ納まるほど小さかった。

小さい頃暮らしていた町に何十年ぶりかで帰ってみると、「こんな小さい町だったか」と不思議に思うことがあるが、あの話しによく似ている。
おそらく3才か4才の頃だろう、かすかな記憶だが、その頃はまだ伯父も同居していて、父親とかわるがわる風呂に入れてもらったものである。

五右衛門風呂には木の底板があったが、いつもは浮いていて、湯に入る時は、その底板を踏みながら入るのだ。小さい子供では軽過ぎて、底板を沈めて入るのは無理である。うかつに入ると、底板が沈む前にひっくり返って溺れるか、熱い鉄の桶で火傷するか、いずれにしても誠に危ない“儀式”であった。

そんな恐怖の風呂場にいつ頃からあったのか分からないが、ブリキの金魚やポンポン船があった。金魚はいつも湯舟の中で浮いていたが、ポンポン船は特に気に入っていた。

ポンポン船は、スクリューの上に小さなゼンマイがあって、それを捻るとスクリューが回転する仕掛けになっていた。
その後の記憶は途絶えるが、いつの日か五右衛門風呂も様変わりし、ブリキの金魚もポンポン船も風呂場からその姿を消していた。

カマボコの板で帆掛け舟を作る

(1) カマボコの板を絵のように舟型にカットする。
(2) 板の裏側の先端にゴムを掛けるネット釘を打ち込む。
(3) 舟の後部にスクリューを取り付けるフックをねじ込む。
(4) スクリューは、絵のように平たい板を削り、座金を挟み、フックをスクリューにねじ込む。
(5) 更に帆を取り付ける穴を板の上に開け、割り箸などでマストとして差し込む。厚紙で帆を取り付ける。
(6) スクリュー側のフックと舟先側の釘にゴムを掛けて、完成。
(7) スクリューを直接指で回し、固定したまま水面で手を離すと舟は動き出す。

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「糸巻き戦車」と民主主義

2007.05.15 (Tue)

民主主義の意味を理解したことがなかった。ましてや、その「民主主義」という言葉を聞いた記憶さえなかった。しかし、学期ごとに行われる学級委員の選出は、紛れもなく「民主主義」の基本精神に則ったものであった。

新学期が始まるとその日に、学級委員の選考があった。クラス全員参加で一票づつ投じ、担任の教師が票を開き、黒板に「正」の字を書いていく。学び舎の風物詩でもある。

クラスを乱すことはあっても、リーダーとしての欠片もないボクでも、一度だけクラス委員長になったことがある。とは言うものの選出されてなったのではない。担任教師から「懲らしめ」のために強制されたのではないかと思うが、今、それを知る由もない。それが証拠に、その後ただの一度も選出されたことがなかった。

学級委員長と副委員長は胸にバッジをつけた。学級委員長は紺色。副委員長はエンジ色である。そのバッジ欲しさに、投票前にわざと目立つ行動をとったり、どこで覚えたのか「根回し」のようなことをする者も現れた。余談であるがこの「根回し」、どこぞの世界で頻繁に行われるこれも、その時代の名残りだと考えられる。

学級委員の選出と同時に各委員の選出も兼ねてあった。それは新委員長の最初の仕事でもあった。

一風変わったもので「週番」という委員があった。「週番」は風紀委員のようなものであり、「週番」という文字入りの腕章をつけて、規律に反する者がいないかどうか監視し、もし反する者がいれば注意することが許され、ホームルームでの報告が義務付けられていた。

監視するといっても、「廊下を走らない」とか、「授業中は静かに・・」、「先生に告げ口(今はチクルと言うらしいが、下品な言葉だ)するな」とかいった他愛もないものだったと思う。

「週番」は毎週土曜日のホームルームに選出された。毎週のことなので、半ば担任教師の命令のようなものであった。ところがこの「風紀委員」ならぬ「週番」の選出は、ボクにとって拷問に近いものがあった。

不定期に開かれる学級会は、まず、それまで担当していた「週番」から、日誌につけられている問題点が報告され、問題となった議案について議論される。もちろん問題の張本人は名指しされる訳だ。
近頃では、どういうものか「イジメ」と言われるようだが、その頃は日常茶飯事であった。名指しされた者は教壇に呼ばれ、頭を掻きながら素直に反省し、下を向いて舌を出していた。

民主主義と関係ない「糸巻き戦車」の作り方
●材料は、使いさしの糸巻き、輪ゴム、割り箸1本。
(1)糸巻きの穴に輪ゴムを通し、一方の端を10cmほどの割り箸に、
他方の端を1cmほどの割り箸の残りに掛けて止める。
(2)空回りしないように、車の部分に適当な刻みを入れる。
(3)割り箸の長い方を時計回りに捻り、
(4)地ベタに置くと動き出す。

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梅干しの種で作る笛

2007.05.14 (Mon)

お昼の弁当の時は、必ず大きなアルミのヤカンが教室にドンと置いてあった。出がらしの、香りも何もない番茶であった。
食事が終わると各人弁当の蓋を持ってやかんの前に行列した。そして、その蓋にナミナミと注ぎ、ズリ足で席まで持って帰り、おもむろに蓋の角に口をあてがい、すすった。給食のなかった頃の、変わることのないひとときであった。

笛の作り方・・・
(1)梅干しの果肉をきれいに取り除き、サンドペーパーで両面を削る。
(2)両面を均等(2mmくらい)に穴を開けたら、
  爪楊枝などで中の種を取り出す。
(3)吹く時は、開けた穴を前後にして、種全体をくわえる。
  口の中の空気がもれないようにする。

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筏遊び

2007.05.01 (Tue)

多くはテレビや冒険マンガに影響されたのだろう、この頃は探検とか冒険に対する憧れみたいなものがボクたちの心を捉えていた。危険なことや辛いこと、孤独や悲しさに挑戦し、それらを克服することで「真の男になれるのだ」と子供ながらに考えていた。男のロマンとでも言うべきものだろうか。

春来川の源流に近いボクの村では川幅も狭く、深さもないので、筏を流すことなどできなかった。そこで夏休みに一度、隣の温泉町まで行き、鮎釣りをしながら下ったものである。思えば、一見ワイルドな冒険も、「男のロマン」とやらも恰好ばかりで、危険や孤独など殆どない、ただのお遊びでしかなかった。

筏作り・・・
(1) 太い真竹を二重に組み、一段目と二段目の隙間に(2)の骨になる竹を入れる。
(3)骨(2)の両端に、柱になる細い竹が入る大きさの円を切り込んで、
   絵のように差し込む。各々ロープの襷がけで固定させる。
(5) 柱を固定させたら、横棒(取っ手になる部分)を渡し、
   これも襷がけをする。
(6)四隅の取っ手を固定させたら、倒れないように斜に四ケ所、竹で支える。

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イタドリの水車

2007.04.26 (Thu)

イタドリを食べた経験のある人は少なくないと思う。飽食の今の時代に、道端に生えているイタドリなど、誰も振り向きもしないが、ボクたちの小さい頃はおやつ替わりに食べていた。この季節になるとイタドリの茎が太くなり、葉っぱが広がらない時期の柔らかい時が食べごろであった。

味はどうかと言うと、山桃に匹敵するほど酸っぱくて、旨いものではない。しかも若干渋味があるので舌が痺れる。しかし、それはそれで美味しく食べる方法があった。誰から聞いたのでもないが、塩をつけるとそれなりに甘く感じたのだ。

先っちょが、尖ったアスパラガス状になっている茎の部分を指で摘み、弾力ある柔らかさを確かめて折る。竹のような節の間が空洞になっていて、折るとポンッと音がする。先っちょの芽を除いて皮を剥くだけでよい。塩は、酸っぱさと渋味を消し、甘さを引き立てるためにつけるのだ。

このイタドリで、かつて遊んだことがあった。
イタドリもタンポポも同じような性質をしていて、切り込むと茎がカールした。水に浸すときれいにカールする。そこで思いついたのが「水車」であった。

イタドリの水車で遊ぶ・・・
(1) イタドリ(タンポポでもよい)の、筒状の茎を数センチ切り、
   両端に切り込みを入れる。
(2) 切り込んだ部分を水に浸すと、写真のようにカールする。
(3) 筒状の中央に適当な棒を差し込む。
(4) 棒の両端を何かに固定させ、カールしたイタドリに当たるように
   水を注ぐ。(注意…固定する棒は、回転するようにしておく)

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牛乳ビンのフタで遊ぶ

2007.04.23 (Mon)

小学校の3年生になった頃だったか、学校の校門脇に突然、見たこともない木が植樹された。その木は「メタセコイア」と言った。
「メタセコイア」は、瀬戸内海に面した兵庫県南部の鳴尾浜小学校と、姉妹校になったのを記念して植樹したものである。

200万年前に絶滅したとされていたメタセコイアだが、1945年に中国で発見されたという。生きた化石と言われたこのメタセコイアは、裸子植物の落葉高木で30m以上に成長し、その速度も早いのが特長。

我が校に植樹された時は大人の背丈ほどであった。一度台風で折れはしたが、その後みるみる成長して卒業する頃には二階の窓から枝が触れるくらい立派な大木に成長していた。

このメタセコイアは、ある思い出と重なる。それは、脱脂粉乳の悪夢から解放された年であり、遅ればせながら我が校にも給食が始まった年でもあった。主食はご飯かコッペパン。それに副食と牛乳がついていた。週に一度のカレーライスとシチューは人気があっておかわりの行列ができたが、それはともかくとして毎日付いてくる牛乳は、それまでの脱脂粉乳とは比べ物にならないほど美味しかった。

分厚いガラス瓶のてっぺんにはビニールのカバーがしてあり、おもむろに剥がすと丸い紙のふたがあった。ふたを取る時、先生は注意した。「左手でしっかりビンを支えて、右手で取るように・・・」と。

大袈裟ではあるが、このふたを取る時の冷や汗は、後年フレンチレストランで初めてナイフとフォークを持った、あの時の緊張感に近いものがあった。それだけではない。滋養不足のボクたちにとっては、一滴も残すことは許されない栄養源でもあったのだ。

牛乳ビンのフタで遊ぶ・・・
(1) 集めた牛乳ビンのフタをきれいに洗い、古新聞に挟む。
(2) フタが反らないように重しを乗せて、乾かす。
(3) 遊び方は、メンコやローメンコのやり方と同じ。
   相手のフタの一部に当てて、裏返したり、息を吹きかけて飛ばして裏返すと没収できる。

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水きり。

2007.04.09 (Mon)

大リーグやサッカーが身近になった今、それほどでもなくなったが、数年前まで40年間も巨人ファンだった。と言うのも、昔の田舎は巨人戦しか放送されなかったので、否応無しに巨人が頭に住みついてしまったのだ。物心のつき始めた頃から“巨人・大鵬・玉子焼き”だった。しかし、昭和31年から33年までシリーズを3タテした西鉄の“神様”稲尾や、翌年の34年、4連投4連勝したサブマリン杉浦の話は、伝説として大人たちから何度も聞かされていた。ボクはその伝説の試合を観ていないが、大人たちが「サブマリン投法はこうやって・・・」と、さも実際に観て来たかのように真似をして見せるので、河原の石投げは全員杉浦が乗り移ってしまっていた。

誰でも一度は経験したことのある遊び。実は「水きり」という呼び方は、最近まで知らなかった。先日、TVのある番組で「水きり」なる遊びの同好会があることを知った。大の大人が河原で石を拾い、ひたすら川に向かって投げる姿を見て、忘れかけていた童心を蘇らせるばかりか、何かとストレスの多い現代社会で羨ましくもあった。

石投げ・・・
(1) できるだけ平たく、水の抵抗がありそうな丸い石を使う。
(2) 投げる時は、水面に平行になるようにサイドスローで投げると、水面に弾き飛ばされて遠くまで飛ぶ。強く投げれば投げるほど、水面で弾く回数が増える。

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夢見る鳥人。

2007.01.08 (Mon)

台所の勝手口を開けると、三角形の裏庭が見える。冬の雪囲いをすると、その勝手口は閉ざされて長い冬に埋もれた。裏庭は高い土手が迫り、その上に階段状の田んぼが山裾まで連なっていた。
台所の上の二階の屋根が田んぼと接していたため、雪が積もると田んぼと屋根が繋がり、ちょうどスキー場で見るゲレンデへのスロープのようになった。

遊びとしか思っていなかったスキーがスポーツであることを知ったのは、中学校に入った頃である。その頃、冬になるとテレビでもジャンプ競技が盛んに放映されて、鳥人のように空を飛ぶ姿に魅せられたものだ。

ルールもスタイルも飛距離も、今では総て違ったものになってしまったが、当時はまだ、いわゆるクラシックスタイルであった。
序走の姿勢は、腰を屈ませるスタイルは今でも同じだが、両手を前に出してプールに飛び込むようなカタチであった。サッツで飛び出してからも、両手を鳥の翼のように広げる。空中姿勢もV字形ではなく、両足をきれいに揃えるのが基本的なルールであった。

空中に舞うジャンパーたちは、まさしく鳥人に映った。
ボクはジャンパーを目指すつもりはなかったが、あんな風に空が飛べたらどんなにいい気持ちだろうか、くらいは思っていた。
考えたことはすぐに実行しなければ、気が済まなかった。そして、裏の田んぼにジャンプ台を作ることにしたのだった。

階段状のそれは、雪が深くなると緩やかなドレープになった。
ボクはまず、一番高い田んぼまで上がって、出っ張った部分をスコップで削り、窪んだところに埋めてスロープにしていった。それから、一番下の田んぼの畦をより高くして段差をつけた。
150mほどのスロープに傾斜角30度。ジャンプ台にしては、なだらかで初心者並みのコースではあったが、それなりのスピード感はあった。

テレビで観たジャンパーを思い描き、前屈の姿勢をとった。サッツのポーズも、あらかじめイメージトレーニングしてあった。何度も転倒し、頭から突っ込み、全身雪だるまになりながら、ジャンパーの姿を追った。それでも、10mに満たなかったが。

1972年、冬期オリンピック札幌大会に、笠谷幸生、金野昭次、青地清二がノーマルヒルで金銀銅を独占したのは、それから5年後のことである。

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「そり」と救援物資。

2007.01.05 (Fri)

「全校生、速やかに講堂に集まるように!」
ぐうたらな正月も過ぎ、本格的な冬の三学期が始まった、ある日のことであった。教室がまだ暖まらない早朝、教頭先生のしわがれ声が校舎中に響き渡った。担任教師の姿がない教室内は、何ごとかとざわめき、落ち着かなくなった。週に一度ある朝礼の雰囲気と違っていたのである。

冷え冷えとした講堂に全校生が整列した。雪明かりが窓から射し込む講堂に、白い息が並んでいた。
「今日、10時に自衛隊のヘリが救援物資を運んでくるから、全員、蓮池に集合すること」と、教頭先生からの話しは至極簡単なものであった。
救援物資の投下は、自衛隊が演習を兼ねているらしく、村を挙げて参加せよとのことだ。こんな簡単なことなら、校内放送でこと足りるのにと、冷えきった講堂の中で不満顔が見え隠れした。

しかしボクは、自衛隊とかヘリコプターという言葉に、異常に反応した。しかも救援物資を運んでくるというのだから、何となく、ただならぬ気配を他人事のように感じたのだ。
緩慢な足取りで教室に戻る中で、ボクとT君は、F先生の制止も振り切って、真っ先に教室を飛び出した。

雪に閉ざされたボクの村は、文字通り「陸の孤島」となっていた。道路と田畑の曖昧な境界線は、馴れないと大きな事故に繋がる。しかし、ボクたちは容易く見分けることができた。目を瞑っていても歩けるほどだった。
村の真ん中を走るやや広めの国道らしき部分に、人ひとりやっと歩けるだけの雪道が一本。その足跡に戯れるかのように、野ウサギのそれがまとわりつき、山裾へと消えていた。

外界から閉ざされ、村がどういう状況に陥っているか。そして生死の硲に立たされたかも知れない大人たちの恐怖など、ボクたちには一切関係なかった。それより自衛隊とへりと救援物資だけが、興味の対象になっていたのだ。

ヘリが物資を投下させるには、それなりの条件が必要であって、山と校舎に挟まれた小学校のグランドでは危険極まりない。そこで村の一番上にある蓮池になったのだ。
お盆の頃には、一面蓮の花で覆われる。蓮池はグランドの3倍以上あり、冬には凍結して打ってつけの条件になった。
粉雪の舞う蓮池の周辺は、村びとたちで埋められた。池の端に大きい「ソリ」がロープで繋がれ、もう一本のロープは数人の男たちの腰に結ばれ、その端は群集に握られていた。ボクとT君は、その前で一部始終を見ていた。

ヘリが長い間上空で旋回していた。
蓮池の中央で松明の灯りが上がった。そして、上空の雲間から大きなヘリが現れた。ヘリは次第に大きくなり、粉雪を巻き上げ、雪面から2mくらいのところで静止した。胴がぱっくりと開き、大きな荷物が2つ3つと投下された。そして、あっという間にヘリは上空へ消えていった。

そりの作り方
(1) 足は厚さ4cm程度、70×15cmの板を2枚。
   雪着面の「そり足」部分の竹は、幅4cm、厚さ5mmくらいの薄さにして、釘で取り付ける。
   (竹は割れやすいので、あらかじめキリで穴を開けておく)
(2) 先端を半円を描くように板を切り取り、板に添わすように火に炙りながら曲げていく。
(3) 台座(座る部分)を取り付ける。台の幅は腰の幅に合わせて約40cm。
(4) 持ち手はどちらでもかまわない。

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