昔遊びと悪ガキ

キラキラとした別世界。・・・今考えると、これほど外の世界が魅力的に感じた時代はなかった。

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東京タワー

2014.05.06 (Tue)

東京スカイツリーに行く気は起こらない。

その理由ははっきりしないが、

たぶん、東京タワーに対する懐かしさから

スカイツリーより東京タワーの方が勝ったのだと思う。

最後に行ったのは中学生の修学旅行だったから

40年以上経つが、実はその前に一度行っている。

確か9才か10才の頃だったか

ボクが高校入学する直前に他界した実母が

その頃入院していた「東京女子医大病院」が

馬込の方にあって、母の病室から

赤い東京タワーが見えていた。

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ホタルと蚊帳

2013.09.17 (Tue)

まったく時期外れな話しだが、2年続けてホタルを見なかったこともあって、ついつい忘れていた。忘れていたのはホタルであって、そのことを思い出したら、ついでにまったく古い記憶が蘇ってしまった。


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八畳間の四隅には、鴨居の高さに太い五寸釘が刺さっていた。普段はちょっとした荷物とか、父たちの作業着が吊るされていたのだったが、この季節になると蚊帳のフックが掛けられた。エアコンやクーラーがまだ普及されていなかった、昭和30年代の当たり前の風景である。

蚊帳の線香臭いにおいはあまり好きではなかったが、それ以上にワクワクしたものを感じていた。
その頃は、少なくともボクの田舎では、キャンプなどのアウトドアライフといった言葉は存在していなかったのだが、サバイバル的日常が、おそらくそのままアウトドアライフとして、敏感に捉えていたに違いなかった。

幼児期は蚊帳の上に乗って遊び、蚊帳とともに落下して、じいさんに殴られる事件はあったが、それはそれとして、どれも楽しい思い出であった。
特にこの季節、蚊帳を通して見る外の風景は美しかった。
暑い日中が夜ともなれば、涼しい風が開け放たれた縁側から入り、蚊帳を揺らした。青白い月の光りが辺りを照らし、乱舞する蛍の光りが幻想的な景色を映し出す。

蛍の生態については、分からないことが多い。地球温暖化が原因かどうか、大雑把なことを言うつもりはないが、6月の中旬から梅雨のシーズンには終わってしまう地方もあるように、少しずつ早まってきていると思われる。ともかくボクの住んでいた山陰の山奥では、梅雨の盛りから夏の前半、つまりお盆の頃にかけてがシーズンであった。

夏休みが始まると、村の子供会で毎晩、夜警に出かける。夜警は夜番とも言って、拍子木を打ち鳴らし「火の用心」と連呼しながら村じゅう練り歩くものである。ボクはその夜警が大好きで、小学生に混じって歩いた。
さっさと夕食を済ませ、拍子木の音を、今か今かとひたすら待った。拍子木は年長者が持ち、その後に年少の子どもたちが続いた。手に手に蛍捕り用のグッズを持って。

蛍捕り用のグッズは、小豆の穂を束ねて竹竿の先に取付けたホーキ状のモノと、手製の虫かごである。
田舎の道だから街灯ひとつない。蛍が乱舞し、まるで昼間のように辺りを照らすのだから、懐中電灯などは必要なかった。

何千匹、あるいは何万匹もの蛍が夜警の列にまとわりついた。青白い光りを点滅させながら闇を照らし続ける。青々とした稲穂から、道端の雑草の中から舞いたち、幻想風景を描いた。

子どもというのは実に残酷なもの。数日で息絶える儚さをしることも、風流を味わう大人心も持ち合わせていない。夜警とも蛍狩りとも判別つかない集団はやがて解散し、ピカピカと輝く虫かごを手にして帰路につく。
蚊帳の中に放たれた蛍は、出口のない闇の中で乱舞する。そして、開け放たれた縁側から、誘われるように仲間たちが集まってくるのであった。

田舎の記憶(その1)

2010.01.04 (Mon)

システムキッチンが導入され始めたのはいつの頃だったか分からない。それは恐らく、様々な地方の若者たちが都市部へ流れ、団地、つまり集合住宅が核家族の城として形作られた頃だと思う。

『狭いながらも楽しい我が家』というキャッチフレーズで、ニューファミリー世代が団地住まいを始めた。一国一城の主となった若き世帯主は、仕事場に近い新興住宅地に核と成し、新しい家族像を夢見た。ちょうど団塊の世代で辺りであったろう。

東京オリンピックを発端とした好景気は、1970年の大阪万博で更に高まった。ボクたちはそういう世代の何年か後である。

3LDK、70平米。
80年代の初め、初めて手に入れた我が家である。開かれた南面にリビングとダイニングキッチン。東側に和室2間と洋室。エレベーターこそなかったが、まさしく『狭いながらも楽しい我が家』を絵に描いたような生活である。

システムキッチンを知ったのは、その頃である。5階建て7棟、約350世帯が住む中規模の団地で、I型、L型の2通りしかない規格型キッチン。そしてキッチンのすぐ横に、4人掛けのダイニングテーブルが置かれ、生まれて初めてテーブルでの食事が始まった。

コンクリートの箱形住宅と、総て規格仕様の住まいは、暖かく快適である。しかし、何か足りなかった。その「何か」が分からないまま、20年の月日が経ってしまった。

「何か」。
それは今思うに、あの田舎の不便な暮らしの中にあった、不思議な温もりであったのではないだろうか。だからといって、今の暮らしに、それがないわけではない。歴史といったオーバーなものでもないが、何か目に見えない息づかいが、家の隅々に染み付き、そういうチカラによって守られていたのだろう。そんな気がする。


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生まれた家は実にデカかった。屋敷が何坪で建坪がどれだけあったのかは記憶にないが、大家族の農家で、しかも家畜を飼っていたこともあって、正月前の大掃除さえ3日も4日もかかったほどだから、推して知るべしであろう。

特に田舎は、村人の結束が硬く、年中行事や冠婚葬祭も総出で行う。だから、そのための広いスペースが各家庭に準備されていて、ひとつひとつが大づくりになっていた。

広い玄関に広い土間。上がりかまちの上には広い客間がある。和室8畳が1階に4部屋。その内の2間は、その時のために開放するのだ。

居間の中心には囲炉裡があった。その囲炉裡は冬場に堀ゴタツに変身した。居間の端には板間がある。大家族用のデカイ水屋と窓際にミシン。台所への戸を開けると、更に5畳ほどの板間があった。

板間はL路型になっていて、片方に2穴のおくどさん、中央には3畳くらいの土間があり、そこで毎年、大量の餅をついていた。5畳の板間はそのための広さである。

タイル張りの台所は、いつも冷え冷えとしていた。台所もコーナーに直径1m以上はある大鍋が常設してあって、ここで味噌や醤油、あるいは自家製の豆腐を作っていた。

台所の隣には五右衛門風呂と作業場、そして貯蔵物の倉庫が併設されている。玄関の土間の通路はその作業場につながっていた。通路の途中の戸を開けると、牛の納屋につながる。1階だけでなく2階も同じ広さがある。更に作業場と納屋の上には屋根裏部屋を含めて3層になったいた。

小さい頃のボクは、この広過ぎる家の不便さに閉口したものだが、しかしその中で、不便さを補うための機能を、自らのチカラで作り上げるという、だから戸板一枚から囲炉裡の灰に至る総てに、家族の血や汗が染み付いていて、それが「温もり」に感じたのかも知れない。今思えばだが。



太陽が落ちた。

2009.11.24 (Tue)

いま立っているこの地球が、丸くて、真っ暗な宇宙空間の中に浮かんでいて、銀河系の小さな星のひとつとして、太陽の周りをグルグルグルグル回っているなどと知ったのは、いつだったか。

それを信じるまでは、地球が真っ平らで、ギラギラと光る小さな太陽が、地平線の果てから上り、反対側に落ちて夜の闇が訪れるのだと思っていた。おそらく3才の頃だっただろう。

地球が丸いと言われても、にわかに信じられない。巨大な大地が球になっていて、自分がいるところの反対側にも実は人間がいて、しかも逆さまに立っているなんて誰が信じただろう。ましてや3才の頭では。

その謎がますます深まったのは、初めて海を見てからだった。

三角形の山に囲まれたボクの村。見えるのは、どこまでも続くギザギザの稜線と、田や畑ばかり。村の真ん中を流れる川の水は、低い土地を探して下る。その水は、一体そこへ流れ着いて、どこに溜まっているのか。

ある朝早く、ボクは野良へ行く父の後を追った。田植え間近のそこは、代かき後の水を満々と湛え、出たばかりの太陽にピカピカ光っていた。歪に、小さく区切られた田んぼで、いくつも光る。

毎日毎日、同じ方角から上り、時間とともに少しづつ高くなって、やがてオレンジ色に燃えながら、出た時とは反対側に落ちていった。

太陽は一旦落ちると、落ちた位置からは二度と上らない。出る場所はキチッと決められていた。だから、昨日の太陽と今日の太陽は別のもの。毎日毎日、別の太陽が上り、そして落ちていくのだ。

ある日、村の人たちと海水浴に行った。生まれて初めて、ボクは海を見た。日本海に面した諸寄(もろよせ)というところであった。小さな入江の両側から岬が張り出して、その外側はどこまでも続いていた。海の青さと空の青さが一本の線で分かれて、真っすぐに伸びている。

あの「線」の向こうは何があるのだろう。

この海の上にも、ボクの村に出る同じ太陽が輝いていた。村の上に出る太陽はギザギザの山から上る。でも、ここの太陽は真っすぐに伸びた、水平線の向こうから上る。きっと、別の太陽なのだ。

広い海の向こうは、一本の線で終わっていた。しかし、そこから生まれる太陽は、海の中から出てきた。海の中で何が起こっているのか。水平線はどこで終わるのか。それはきっと、巨大な滝になっていて、底なしの地底に落ちているのだ。

ある日、ボクは夢を見た。
燃え盛る太陽が、植えたばかりの田んぼに降ってくる夢を。丸いお盆のような太陽が、突然、空から落ちてきて、ジュッといって消えていく。いくつもいくつも。熱くて熱くてたまらなかった。逃げれば逃げるだけ追いかけてきた。


ほたる

2009.07.04 (Sat)


八畳の客間の四隅には、鴨居の高さに太い五寸釘が刺さっていた。普段はちょっとした荷物とか、父たちの作業着が吊るされていたのだったが、この季節になると蚊帳のフックが掛けられた。
エアコンやクーラーがまだ普及されていなかった、昭和30年代の当たり前の風景である。

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蚊帳の薬臭いにおいはあまり好きではなかったが、それ以上にワクワクしたものを感じていた。
その頃は、少なくともボクの田舎では、キャンプなどのアウトドアライフといった言葉は存在していなかったのだが、サバイバル的日常が、おそらくそのままアウトドアライフとして、敏感に捉えていたのかも知れない。

幼児期は蚊帳の上に乗って遊び、蚊帳とともに落下してじいさんに殴られる事件はあったが、それはそれとして、どれも楽しい思い出であった。
特にこの季節、蚊帳を通して見る外の風景は美しかった。

暑い日中が夜ともなれば、涼しい風が開け放たれた縁側から入り、蚊帳を揺らした。青白い月の光りが辺りを照らし、乱舞する蛍の光りが幻想的な景色を映し出す。

蛍の生態については、分からないことが多い。地球温暖化が原因かどうか、あまり大雑把なことを言うつもりはないが、6月の中旬から梅雨のシーズンには終わってしまう地方もあるように、少しずつ早まってきていると思われる。

ともかくボクの住んでいた山陰の山奥では、梅雨の盛りから夏の前半、つまりお盆の頃にかけてがシーズンであった。

夏休みが始まると、村の子供会で毎晩、夜警に出かける。夜警は夜番とも言って、拍子木を打ち鳴らし「火の用心」と連呼しながら村じゅう練り歩くものである。ボクはその夜警が大好きであった。

さっさと夕食を済ませ、拍子木の音を、今か今かとひたすら待った。拍子木は年長者が持ち、その後に年少の子どもたちが続いた。手に手に蛍捕り用のグッズを持って。

蛍捕り用のグッズは、小豆の穂を束ねて竹竿の先に取付けたホーキ状のモノと、手製の虫かごである。
田舎の道だから街灯ひとつない。蛍が乱舞し、まるで昼間のように辺りを照らすのだから、懐中電灯などは必要なかった。

何千匹、あるいは何万匹もの蛍が、逃げることもなく夜警の列にまとわりついた。青白い光りを点滅させながら闇を照らし続ける。青々とした稲穂から、道端の雑草の中から舞いたち、幻想風景を描いた。

子どもというのは実に残酷なもの。数日で息絶える儚さをしることも、風流を味わう大人心も持ち合わせていない。夜警とも蛍狩りとも判別つかない集団はやがて解散し、ピカピカと輝く虫かごを手にして帰路につく。

蚊帳の中に放たれた蛍は、出口のない闇の中で乱舞する。そして、開け放たれた縁側から、誘われるように仲間たちが集まってくるのであった。


3才の記憶-厠編

2008.12.15 (Mon)

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幼児期の記憶や体験が、断片的ではあるが、ふと蘇ることがある。とはいえ、多くの場合は夢か幻想に近く、普通はそれを証明することなく、時を過ごしてしまうものだ。ボクの場合もそうであった。

だが、何かの拍子に過る無声映像のようなもので、しかも妙にリアル感に満ちていた。以前記した『3才の記憶(2006.12.9投稿)』は、その不思議な記憶を社会人になった後に思い出し、父親に聞いたものである。

薄暗いオレンジ色の裸電球の下で、大勢の人たちがうごめく。木を切る人。すべすべした柱木を担いで、右へ左へ動く。霧にかかったような世界に、抜けるような青空が覆う。黒ずんだ壁や柱が真新しい木肌の香りに包まれる。

コンクリートを打つ気配。白木から舞い上がる美しい羽衣。息苦しく狭い空間が、広々とした野原のように生まれ変わっていった。何度も何度も、夢の中に映し出される映像。それは、てっきり夢だとばかり思っていた。だが、それは夢ではなかった。

父は言った。「昭和30年頃に家を改築した」と。ということは、ボクは3才前後だったということになる。
父は更に言った。「昭和20年代までの我が家は、草葺きの平屋で、母屋に二部屋と土間、三角の屋根裏部屋の物置、母屋の隣りに十畳ほどの牛小屋と、母屋から最も離れた場所に”厠”があった」という。

昭和30年に入ってすぐに全面改築された。母屋を二階建てにして大小八部屋、広い納戸、広い台所(これは自家製の豆腐や餅つきをするため)に広い土間。離れ風であった牛小屋が母屋とつながった。

土間と納屋の間に味噌、醤油(いづれも自家製)、米を収納する部屋と、精米などの作業部屋。その二階に、根菜類を貯蔵する部屋と農作業部屋。更にその上の屋根裏部屋には干し草が、びっしり埋まっていた。

以前と違っているところは、母屋の北側に便所ができていたことだ。ただ、牛の納屋の隣りにも、コンクリート製の便所があった。たぶんそれは、屋外の仕事中に催した時のためではなかったかと思う。

昔、厠は”不浄の場”として居住スペースから、遠ざけられていたと聞く。人さまの生理現象に欠かすことのできないそれを、何故、忌み嫌っていたのか、ボクには分からない。

余談ではあるが、何年か前、友人Nが大阪を離れて田舎暮らしをと、古民家のロケハンに同行したことがある。岡山の美作、丹波篠山、そして丹後である。ロケハンした古民家はどれも70年から、古いもので100年を超えた物件があった。

昔の建物は相当しっかりと造られている。太い梁、それを支える太い柱。分厚い腰板に重そうな扉。煤けた囲炉裡端や、シミのついた土間。だがその多くは長い年月の間、そこかしこにガタがきていた。中には梁や柱までも傾き、多少手直ししただけでは住むことはできないくらいのシロものであった。改築前の我が家の厠がそうであったように、その古民家たちも、やはり遠ざけられていた。

話しを戻す。”厠”のことである。
改築と同時に、ボクの記憶の中に不思議なものが刻まれていた。牛小屋の奥にあった厠が、どういうカタチをしていたが思い出せないが、厠の天井に、木製の滑車がついていたことである。

あの滑車が、一体何のためにあったのか?
たとえば、人さまの落としたモノを桶か何かに入れ、あの滑車を利用して汲み出したとも考えられるが、しかし、汲み出し用の穴は外部にあった。だから、滑車があの位置にあるのは、どう考えても合点がいかないのだ。

そこで父に聞いた。
父が生まれた頃は、その滑車に一本の縄が巻かれ、下に木槌が置かれていたらしい。父の幼児期には既に、用を足した後の始末は、いわゆる『落とし紙(当時は新聞紙であった)』に変わっていたが、ずっと前は、それすらなかったのだという。

ボクの田舎が縄と木槌であったように、紙を使う習慣がなかったその昔、ある地方では厠そのものもなく、川原で用を足したという例もある。要するに、川原で足し、川の水で洗い、流れたモノがやがて魚たちを育てる。そうして再び食卓へ上がるという、理想的なリサイクル生活を送っていたことになる。

さて、その縄と木槌の問題である。
束になった縄は滑車を通して、その先は便器(実際は”器”ではなく、板間に穴を開けただけのもの)まで達していたらしい。仮に用を足したとする。で、滑車から垂れ下がっている縄を、股間に挟んで引っ張る。つまり、縄が落とし紙の役を果たすわけである。

縄に付着したモノが乾燥すると、木槌で叩いてパラパラと落とす。乾燥していなければどうするのか、想像しただけで恐ろしい。
そのような行為のあり方が、100年近く前まで行われていたなど、除菌、消臭に慣れた現代人の我々には、いずれにしても想像を絶する話しだ。
機会があれば、”厠の歴史”なぞ研究したいものだ。

ペグリスト(完)

2008.11.23 (Sun)


 大理石の床が焼け付き、陽炎の向こうに廃墟が揺れている。燃えるような赤い太陽が、砂漠の稜線に滲んで見える。

 暑い。
 身体が痺れる。
 脳が煮えたぎって、意識が途切れそうになった。
 石像の、僅かな陰に腰を下ろす。

 玉垣は、意識のはざまを往復していた。
 何かの音が徐々に近づいてくる。音は、規則正しい間隔で次第に大きくなって、玉垣を暗闇に押し包んだ。

 闇が大きく揺れる、次の瞬間、割れるような大音響が暗闇を裂いた。
「キサマハダレダ! ペグリストニナンノヨウダ!」
 玉垣は、思わず顔を上げて身構えた。

 立ちふさがっていたのは、巨大な石柱のような武装兵士たちであった。玉垣は、とっさに逃れようとした。が、一人の兵士に退路を塞がれてしまった。

 金色に光る鎧をまとった巨大な兵士が、玉垣の胸ぐらを軽々と掴み、丸太のような腕が、空を切って玉垣の顔を捉えた。玉垣は、両手をドンと押して兵士の胸を突き、飛んでくる丸太をかいくぐった。
 足下に振り落とされた玉垣は、巨柱のような兵士に足払いを食らわせた。
「イターッ!」

 巨人たちと赤い太陽が、画面から消え、再び暗闇に包まれた。
「社長・・・・・・」
「何が社長よ! イターッ!」
 隣で寝ていた、奈緒のうめき声が聞こえた。

    完

 
 いやー、失礼しました。
 これは、ある日の未明のできごとでした。
 翌朝、奈緒のふくらはぎには青あざが浮いていました。いやはや。

ペグリスト(7) 

2008.11.21 (Fri)

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 自分の意思と関係なく、浮遊し、ゆらゆらとしているその自分の影を、また別の自分が追っている。痛みや苦しさや圧迫感はない。たぶん、麻酔にかけられていながら、視力だけがまともな状態といった感覚といえば分かりやすいだろう。

 眼下を網の目のように這う風紋の陰影が、マルチストボロボで見る映像に似ていた。綿のような白いガスが、片山を見え隠れさせていた。そして、彼の左腕がガッチリと玉垣の右腕に食い込んでいた。今振りほどけば、たちまち奈落の底へ逆落としになってしまうだろう。

 琥珀色の砂漠が、徐々に赤茶色に染まっていく。その遥か向こうに、赤い太陽が、同じ色の空に溶けていて、今にも漆黒の闇に沈もうとしていた。強烈な赤い光線が、玉垣の肉体を串刺しにして、焼き焦がそうとしているようであった。

 この浮遊が心地よいとさえ感じた。深い眠りに落ちた時にある、まるで瞼の裏の泡沫夢幻の中にいるようであった。泡のように弾けてしまうかも知れない。だがこの心地よさが永遠であればいいと。生きることの辛さを思えば、自分の意思に反していても、それはそれでいいとも。

 玉垣は夢の中を彷徨っていた。だが、それは突然起こった。

 鼓膜の射抜くような破壊音と同時に、全身に激痛が走った。
 目から火が出るような痛みに唸りながら、接着剤でかためられたような瞼を、無理矢理こじ開ける。溶鉱炉と化した映像が映し出されたそこは、どこかの神殿のようであった。写真であったかテレビの中であったか、古代ギリシャ時代のアクロポリスのような。

 そしてその背面には、石造りの広大な古代都市が、地平線に沈む太陽に溶けていた。赤い夕日が大理石の床を、まぶしく照らしている。

 玉垣は、痛む身体をゆっくり起こして、赤いピャンバスをはめ込んだ巨大な石柱に歩み寄った。石柱の前には幅広の階段があった。階段を10数段上がると、そこには背丈ほどの式次第のようなものが立っていた。石造りであった。

「しゃ、社長・・・ここは・・・」と振り向いて、玉垣は驚いた。
 片山の姿が消えていたのに、初めて気がついた。

つづく

ペグリスト(6) 

2008.11.19 (Wed)

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 強烈な光に照らされた片山の顔が、玉垣の方へ振り返った。そして、左手が伸びるといきなり手を捉えた。あっという間であった。
 玉垣は両足を踏ん張って抵抗したが、片山の、思いのほか強い力に、なす術もなくとうとう引き込まれていった。

 放射する光はますます大きく膨張した。目を開けていられないくらい強烈な光線の中に、二人とも吸い込まれていった。玉垣は腰が抜けたように、その場にうずくまった。乾いた砂の臭いがして、片山の顔がすぐ目の前にあった。

 玉垣は、渾身の力で片山の手を振りほどこうとしたが、巨大な岩のようにびくともしない。
「社長、・・・いったい僕をどうするおつもりですか?」

 玉垣の必死の抵抗にもかかわらず、片山は翁面の中にある目が、ますます消え入る前の三日月のように細くなった。
 その口がもぐもぐと動いて何か言っているようであったが、声にはならない。独特な優しい微笑みが、ともすれば悲しそうにも見える。

 光が揺れている。
 風の音が聞こえる。
 脇の下へ滴り落ちる冷たい汗が、止めどもなく流れてTシャツに沁みる。不快極まりなかった。
 
 風が吹き荒れている。
 その風がどんどん近づいて、耳のすぐ傍をすり抜ける。光はついに、二人を飲み込むほどの大きさに広がり、地下室が真っ白に照らされた。
 と、片山の左手に強烈な力が加わった。玉垣は必死に抵抗したが、ずるずると引き込まれた。
 
 片山の身体が光の中へ、半分溶けて消えかかっている。
「待って・・・、待ってください、社長!」
 玉垣は思い切り足を踏ん張った。が、しかし抵抗すればするほど、片山の術中にはまるのだった。

 パリパリと金属音が聞こえた。何か重い金属を引きずっているような音であった。その音が大きくなったと思ったら、あっという間に止んだ。
 すり抜けるような感覚が残った。

 意識が遠のき、無重力空間を浮遊しているような気がした。ぷよぷよしたゼリーか真綿の中を泳いでいる。いくら力を入れようとしても、身体の自由を奪われて、流されるままであった。片山の握る手が、ガッチリと歯車のようにはめられている。
 強烈な光線に吸い込まれていく。ものすごいスピードである。そしてついに、玉垣は意識を失った。

 どれほど時間が経ったのだろう。シャーシャーと耳の奥が鳴っている。まるでセミの声のように。
 玉垣は細く目を開けた。痛いように真っ白な光線が緩み、光の幕の向こうに淡いブルーの影が映った。片山は、その影に向かって泳いでいる。

 ブルーの影が、みるみる濃くなった。それと同時に、真っ白な靄が晴れ、まぶしいような青空と、その下に果てしなくっ広がる砂漠が映し出された。
 砂漠の風紋に、二つの影がゆらゆらと這って、何百もの丘を越えた。
 
   つづく

ペグリスト(5) 

2008.11.18 (Tue)

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 頭の中で響く高周波音は、先刻よりは小さくなっていたが、その代わり閉め切られた地下室だからか空気が薄く、その上、蒸し風呂のような暑さで動作が緩慢になっていた。しかも、灼熱の砂漠を歩いてきたせいで足下がふらついていて、もう歩けないのではないかと思った。

 片山が何をしようとしているのか分からなかった。何のために自分を、こんな妙なところへ連れてきたのかと、玉垣は内心、腹が立っていた。これ以上ここにいればどうなるか分かったものではない。

 亡くなった筈の片山に、自分が道連れにされてしまうのではないかと怯えた。自分の死を悟り、一代で築き上げた会社と代表の座を林に譲り、その片山の死の悲しみも癒えない内に、大震災によって彼の歴史そのものが、根こそぎ土佐堀川の底に消えたのである。

 容赦のない神の悪戯に対するせめてもの復讐か、それとも忽然と消えた、自分の歴史への執念だろうか。時空を超えて現れた彼の気持ちなど、玉垣には分からない。そして、自分が何故ここにいるのかさえ分からなかった。

 ひょっとして夢を見ているのだろうか? いやしかし、もし現実だとしたら片山は一体・・・。蝋のように脱色した彼の亡骸は・・・、あれは幻覚だったのだろうか。ならば自分は彼岸へ渡ってしまったということなのか?
 片山は、相変わらず黙ったまま、黒く滲んだクモの巣をまさぐっている。

 と、その手が突然溶けて黒いコンクリートの中へ消えていった。そして、それがあっという間に広がり、次の瞬間、壁の奥から強烈な光線が放射された。針のように鋭い光が、みるみる太くなって片山の翁面を照らした。

「社長、何をしてるんです?」
 玉垣は恐怖に怯えて、どっと冷たい汗が噴き出した。
「やめましょう、社長。もう帰りましょう」

   つづく

ペグリスト(4)

2008.11.10 (Mon)

 ピタリと、風が止んだ。まるで真空の中で泳いでいるようだった。砂上に幾筋もの蹄の跡が、老人の佇む遥か向こうに続いていた。

 途切れることのない高周波音が、耳の奥で響き、こめかみから脳の裏側へ抜けて跳ね返る。
 老人は右手を砂の壁に突き入れたまま振り向き、反対の手で手招きをしていた。しかし、陽炎に揺れるその手が、ぼやけてはっきり見えない。

 ふらふらする足を無理矢理押して、ゆっくり近づく。不快な音は、更に大きくなった。
 足が重い。
 吹き出した汗が、白色に照り返す砂上に、点々と黒いシミを落とした。

 老人の顔が、次第にはっきりとしてきた。数年前に見た、あの翁面と同じであった。少し左肩を下げる癖は、若い頃、肺の病気を患って手術した時のものだと、彼を知る古い友人が言っていたのを憶えていた。
「社長。・・・どうして、ここに?」

 片山は、それには応えずただ微笑んだまま、手招きし続けていた。刺々しい太陽の光が、白髪まじりの頭に突き刺さる。
 玉垣の足下の砂面が崩れ、ズブズブとめり込んだ。その足を引き抜こうとすると、反対側の足が砂の中に呑まれる。

 激しく鼓動が鳴り、滝のような汗が噴き出して目の中に入る。片山の姿が霞んでいた。その汗を拭い、渾身の力で砂上に這い上がった。
 片山のスーツ姿が、すぐ目の前にあった。

 玉垣は、砂の壁に差し込んでいる彼の右手を見ていた。すると、壁の一点が黒く滲み、まるで黒カビが広がるように、みるみる大きくなった。
 黒い大きなシミは四角い空洞になった。SF映画のように、次元の違うどこかを覗いているようで、玉垣は息が止まりそうであった。
「しゃ、社長、・・・それは?」

 片山は、依然黙ったまま、ただ微笑んでいるだけであった。
 次の瞬間、玉垣は彼に引っ張られるように、その黒い空洞へ吸い込まれた。
「社長。何するんです? どこへ?」

 空洞に入る間もなく、ガタッと身体が沈んだ。そこは地下へ下りる階段であることがすぐに分かった。カンカンカンカンとけたたましい音か空洞に響く。
「どこなんです? ここは・・・」
 それにも応えず、片山は黙々と階段を下っていく。

 高垣が躊躇していると、彼の手がいきなり伸びてきた。
 転げ落ちるようにして下りたそこは、薄暗いコンクリートの部屋であった。
(砂漠の下に地下室か? いや、たしかここは会社だった筈だが・・・)
 ココッツ、ココッツ・・・と、硬質の足音が壁に反響した。

 何ひとつない、ただ四角いだけのコンクリートの部屋。ムッとするような暑い空気が澱む。自社ビルとはいえ小さなビルだったから、各セクション毎に部屋割りとそのレイアウトを、引っ越した時さんざん苦労して当てた。だから、ビルの隅から隅まで知っていた。地下室などあるわけがない、絶対に。

 でも、どういうわけかそこにあった。社長だけが知っていたのだろうか。それとも、あの大地震が原因で出現したというのだろうか。玉垣には信じられなかった。
 片山は、向かいの薄暗い壁に向かって、更に歩いていった。

 突然彼は跪き、壁の一点を凝視し始めた。その壁は僅かに黒ずみ、小さな亀裂がクモの巣のように広がっている。黒ずんだそれは亀裂にそって八方に触手を伸ばしているように見えた。
 片山は中腰のまま、クモの巣の中央に手を突き入れた。すると黒いシミが、あっという間に大きくなった。玉垣は、硬直した身体を無理に起こし、下りてきた階段を振り返った。階段は薄暗く、下部の辺りだけが僅かに見えるだけであった。

 片山に悟られないようにと、後ろ向きに一歩二歩と階段の方へ後退りしようとした時、片山が振り向いた。
「しゃ、社長。何か言ってください。一体、何ですかそれは?」

 片山の翁面が、やや苦しげに歪んで見えた。その顔は、玉垣が退社する最後の話し合いの時に見せた顔に似ていた。それは、辞めていく人間に対する一種の恨みのように、あの時は見えたが、今思えば、片山の病状の悪化が原因であったのではないかと改めて思う。

 詩人でもある片山は、ゴルフにも凝っていて、いつも筋肉質の身体を日焼けさせていた。若い頃結核を患って、東京の大学を一時休学を余儀なくされた。快復して復学し、執筆を続けながら、大手の広告代理店を経て今の会社を興した。

 若い頃の経験からであろう、片山はいつも健康には配慮していた。定期的な検診は率先して受け、人間ドックも一年おきに行っていたし、玉垣たち社員にも、耳にタコができるほど、健康には注意された。
 その、神経質なほどに健康に気をつけていた片山が、こともあろうにガンになってしまった。玉垣が退社した1年後のことであった。

「もう上がりましょう、社長」
 玉垣の脇の下から汗が滴り落ち、腕時計に溜まった。暑いような冷たいような、奇妙な感触が余計に恐怖を増幅させた。

 つづく

ペグリスト(3)

2008.10.27 (Mon)

 乾いた砂の臭いは、まだ漂ったまま。まるで砂漠の中にいるような。
(夢、か?)
 玉垣は目を瞑った。
 幾重にも重なる砂丘が、果てもない地平線の向こうまで連なり、やがて、白とブルーの澱んだ色の中に溶けている。

 放射する太陽の光が、霞んだ地平線に突き刺さる。くっきりと際立たせた風紋が、吹く風とともに、刻々と表情を変えて、なにか柔らかい白刃のように畝って見えた。
 波の音も、風の音も、何の音も聞こえない。あるのは、ずれた振り子の中にある鼓動のみであった。

 何度か目を瞑り、その度に目を開ける。
 真っ白な砂漠の中に点々と続く足跡、そして、幾筋も放射してグルグル回転する太陽が、やがてひとつのキャンバスの中に重なる。
 静かに風が止まった。
 細く、ぼやけた画面の一部が、ゆらゆらと動く。

 グレーの頭髪をしたその老人が、ゆっくりと玉垣の方に振り向いた。知的な老紳士の横顔であった。
 逆さ三日月の目と、下瞼から頬にかけて特徴のある笑い皺が、幾筋も刻まれていた。翁面が男前だったら、きっとあんな顔になるだろう、か。

「社長。・・・どうして?」
 と、言おうとしたが、喉がかすれて声にならなかった。片山社長は、微笑んだままであった。
 30坪足らずのPタイルのフロアの隅。それが砂漠の果てのように遠く感じられた。ダリの柔らかい時計が時を刻む。
「何故、ここに?」
 もう一度、今度は声を出して叫んだ。

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 糸の切れた凧のような玉垣が、この世界に入ると決めたのは、この人がいたからであった。片山がいなかったら、何もかもすべてが違ったものになっていただろう。

 玉垣は芸大を卒業した後、何をするでもなく何かをしようという考えもなく、無意味な一ヶ月を過ごした。故郷に帰り、親の顔を見てもなお、何も変わらなかった。そんなある日、当時一緒に暮らしていた奈緒の友人が、新聞の募集広告を見て、玉垣が就活のために用意していた履歴書を、勝手に募集先に送ってしまった。もちろん、奈緒の了解を得てからだろう。

 履歴書を発送して数日後、募集先の会社から玉垣の下宿へ電話があった。しかし、その時はまだ実家で、夢の中を漂っていた。
<いいから、すぐ大阪に帰って>と、奈緒から実家へ連絡があった。

 奈緒から背中を押されるまま、その会社に向かった。リクルートスーツの持ち合わせなどなかった。大阪に出る時、父親からもらった時代遅れのスーツを着ると、奈緒が、田舎の七五三みたいと笑った。
 
 会社の女性から面接の要領は、あらかじめ聞いていた。玉垣は肥後橋の出口を探し、言われた通りの道順で歩いた。そのビルに着いたのは、約束の時間の一時間前だったので、何喰わぬ顔をしてビルの前を通り過ぎて、靭公園で時間を潰すことにした。

 靭公園を入るとすぐにテニスコートが見える。鬱蒼とした古木の脇道を縫って歩いた。左手に半円形のセンターコート。そしてバラ公園の中央に噴水があった。就業時間はとっくに過ぎていたので、さすがに閑散としていて、子連れの母親と年寄りが散歩している。噴水がある小さな池でホームレスが衣服を洗い、薄汚れた身体を拭いている。

 玉垣はセンターコート寄りのベンチに腰を下ろし、タバコに火をつけた。少し離れたベンチでは、老人がパン屑を鳩に与えている。
 温かな日差しが降り注いでいた。

 靭公園のすぐ近くにある小さな古いビル。
 約束の時間の少し前に、そのビルの門を入った。1階の右手に喫茶店、左は、ブラインドーを通して人相の悪い数人の男女が忙しそうに動き間わている。細く開けられた窓から、タバコの煙が流れ出ていた。

 その部屋のドアに「写真部」のプレートが貼られていた。写真スタジオである。
 ドアを通り過ぎるのと入れ違いに、アフロヘアでひげ面の男が、玉垣に一瞥を投げかけてスタジオに入っていった。

 面接は、2階の社長室に併設された会議室であった。
 ノックをすると、電話と同じ声の持ち主の女性が応対してくれた。
 入り口の前はパーティーションで目隠しされている。パーティーションの奥から入っていくと、既に5、6人の中年男性が待っていた。ソファの正面に片山社長、その両隣に副社長とデザイン部長、それぞれの隣に各部署の部長が、難しそうな顔をして居並ぶ。

 面接官はデザイン部長であった。長身で痩せこけた部長は、顔に似合わず柔らかなもの言いをする。自己紹介と型通りの説明の後、部長は、既に玉垣の出身校の調査と身元調査を終えたことを告げた。

「君は、どんな仕事がしたい?」と部長に訊かれた時、玉垣は、「自分は洋画を少しやっていたので、その方を目指したい」と言った。だが部長は、「うちにはイラストレーション部があるが、既に人は揃っているので、君にはグラフィックをやってもらいたい」と言った。

「グラフィックの何たるか知らない人間ができるのですか?」と問うと、「誰でも最初はそうだ。むしろ、学校で現場には役立たない教育を、中途半端に受けた人間よりゼロから叩き上げた方がいい」のだと言う。
 
 なるほど。学校と社会の現場は違うのだと、初めて教えられた。
 暫く雑談を交えて、それまで難しそうな顔をしていた社長が、あの特徴のある翁のような顔をして、玉垣に言った。
「玉垣君。・・・君は今日、大事な面接の日なのに、自分を売り込む作品なり持って来なかったのかね?」と言った。

 生まれて初めての面接だから、まったく分かっていなかった。だが、美大の美学概論の続きを、夜な夜な仲間と論じ合った、あの延長線上のつもりでの無駄話が、どうやら気に入られたのかも知れない。
 
「今日の面接は、久々に面白かった」と社長が一言。
 この時、既に採用が決まっていたらしかったが、日を改めて作品を持ってくるよう念押しされた。しかし、玉垣はこの時まだ、就職をするという意識が実感として湧いてこなかった。

 それから20年。

 つづく

ペグリスト(2)

2008.10.23 (Thu)

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 北の窓際まで行き、濃緑色の土佐堀川がすぐ目の前にあるのを見て、また感激した。おそらく透明度0だろう。しかし、いくらドブ川と言っていいほど濁っていようと、この川は俺たちのものだと、玉垣は思った。ひょっとしたら、いや、ひょっとしなくても、この窓から釣り糸を垂れれば、鯉かフナか上手くすればシーバスが釣れるかもしれない、などと夢想してひとりでほくそ笑んだ。

 東西の壁はビルに挟まれて、換気扇口を除いて窓ひとつない。南面は腰高の位置から天井まで全面窓。土佐堀通りから一本北の細い道路の、我が社の向い側にYMCAと、隣に運送会社の倉庫がある。YMCAは表の南面がエントランスになっているので、裏、要するに我が社からは業者の搬入口しか見えない。

 運送会社の前は長いスロープになっている。倉庫の壁際にパレットが山と積まれ、その前ではフォークリフトがグルグルと回転していた。大型のトレーラーがビルをかすめるように大通りに出ていく。

 幹線道路から一本奥まっただけで、何か陰気でカビ臭くて、自分たちの商売には似つかわしくない気はしたが、自社ビルであるということだけで、気分を高揚させるのに十分であった。

 何もない空間で仲間と、室内をグルグル回った。回っている間に、不思議な感覚に襲われた。グルグルと回った後、平衡感覚が狂って気分が悪くなるような、そんな感覚だった。

 仲間の一人が部屋の中央に立って、じーっと天井を睨むようにしている。フラフラした頭で「どないかしたんか?」と聞くと、天井を見つめたまま「なんやおかしいな、このビル」と言った。
 彼は天井を見たままの姿勢で回転し始めた。

「そう言えばそうだ。何か違和感がある」
 違和感というのは自分の内部からのものか、それとも外からのものなのか、微妙であった。普通に立っているつもりなのだが、浮いているような、身体の中心がズレているような・・・。どちらかの足を浮かすか、踏ん張らないと脳の位置が定まらないような・・・。ちょうど脳出血か何かの前兆が、こんなものかも知れない。

 冷たいPタイルの上に、あぐらをかいて座った。
 すると、少し楽になった。
 玉垣は、ポケットから小銭を出して、Pタイルの上に立てて置いた。
「やっぱり」
 仲間が「えっ」と言って振り向いた。

「これや。見てみ、このビル傾いてるんや。ほれ、お金が転がっとる」
「ほんまや。どうもおかしい思ったわけや」
 玉垣の置いた小銭が、土佐堀川に向かってゆっくりと転がっていった。
 改装屋は分かっていた筈だ。しかし、手に入れた当人はこのことを知っていたのだろうかと思う。(傾いたビルを買ってしまうなど縁起でもない)と、玉垣は心の中でつぶやいた。けれどやはり、自分のものだというのは嬉しい。掛け値なしで。

 だが、今、それがない。
 あの大震災で、根こそぎ持っていかれたのである。4階建てのビルが倒れ、土佐堀川に飲み込まれた。後に残ったのは、ノペッとしたPタイルの床と、2階への階段の一部である。奇麗なものだ。何一つ残っていない。創業40年の歴史がまるごと、土佐堀川の中に消えてしまったのだった。

 コピーライターとイラストレーターが間借りしていた隣の高層ビルは、5階あたりで折れていた。そして、10階分がそのままひっくり返って、横溝正史の映画のように、土佐堀川に突き刺さっている。
 古いビルだからといって、あれほど見事に消えるわけがない。小銭が転がったとしても、ひっくり返ってしまうほど傾いてはいなかった筈だ。
 何か妙だ。

 玉垣は、初めてこのビルに来た時と同じように、変にピカピカしているPタイルの上にあぐらをかいた。土佐堀川の堤防を洗うかすかな波の音がする。遠くで消防車のサイレンの音が近づき、そして南の方へ消えていった。

 最初、違和感があった床も、何年も通っている間に慣れてしまった。しかしこうして改めて、何も遮るものがない床に座ってみると、初めての時に味わった、あの感覚が蘇ってくるようだった。長い間立っていられない。吐き気を催すほどでもないが、身体の中心線が、傾いた柱時計の振り子のようであった。

 玉垣は座ったまま目を瞑った。船酔い寸前の気分が、少しづつ鎮まる。
 と、何かがふーっと玉垣の耳をかすめた。
 乾いた砂のような臭いがした。

 玉垣は薄く目を開けた。すると、スーツを着たひとりの老人が、Pタイルの床の隅にうずくまっていた。濃いグレーのスーツを着た老人の後ろ姿は・・・、どこかで見たような気がする。左肩を少し下げて、そのバランスをとるために頭を右に倒す姿。だが、まさか一年前に亡くなった社長が、ここにいる筈はない。

 つづく

ペグリスト(1)

2008.10.22 (Wed)

 どうしてこんな名前が突然、出てきたのだろう。
 誰かに聞いたこともない。どこかで目にしたこともない。名前も、地名にも、ペグリストなどという言葉は、どこを探してもないのだ。

 そこは、ある筈もない地下室だった。
 玉垣は気がつかなかった。少なくとも20年もの間、その会社に勤めていながら、まったく気がつかなかった。入り口さえ見たこともない。ましてや話題になったことすらなかった。デスクの配置やオフィス機器の位置の関係で、限られた狭い部屋を隈なくチェックして、Pタイルの数を碁盤の目の平面図に合わせて書いたくらいだから、見落とすことはなかった筈だ。

 長年借りていた小さな賃貸ビルは、バブル経済が始まった頃、大所帯になって収容しきれず、引っ越すことになった。それが土佐堀川を背にした4階建てのビルだった。
 元は何の会社だったのか知らない。築10数年の古いビルを、当時1億円で買い取り、内装をし直して、OA機器やデスクの一部、仕事上の機材などを新調して移った。そして、更に4階の天井をぶち抜いて階段をつけ、屋上にバラックを設置することになった。

 1階には受付を配置した。3帖くらいの広さの玄関の上の眼前に横長の窓の、ちょうど町医者の受付と同じようにあった。
 受付の奥にパーテーションを隔てて営業室。その奥にコンピュータ室。西側はトイレと2階への階段、それに、天井までのロッカーを並べて仕切られ、その間に通路があった。2階から4階まではデザインルームになっていた。4階の天井をぶち抜いて作った屋上のバラックを、暗室にしていた。暗室は、フィルムを現像したり写真のプリントを焼き付けたりする部屋である。
 屋上の上に乗せられたバラックだったから、冬は滅法寒くエアコン入れてもあまり効き目はなかったし、夏は夏で焼けたトタンの上にいるように暑かった。
 100人以上の所帯では、もともと4階建てのビルには入りきれないことは、初めから分かっていたので、隣の賃貸ビルにコピーライター、イラストレーターなどの部屋を間借りした。

 その後、数年してますます社員数が増え、間借りする部屋が足りなくなると、今度は駅の近くに新しく建ったビルを1棟借りすることになった。いわゆるバブルの絶頂期であった。フロア面積は土佐堀の自社ビルよりも倍近く広く、10階建てなので、会議室を十分とってもまだゆとりがあった。

 1階は受付兼総務部が占め、2階から6階までがデザイナーとコピーライターが、7階は営業、8階が大会議室、9階に資料室があり、最上階の10階が社長室と秘書室、更に小さな会議室があった。もちろん、各階にも小さなミーティングエリアが設けてあったくらいだから、結構よゆうである。

 そのビルに移って4年目であった。バブル景気の雲行きが怪しくなってきた。月に150時間200時間(もちろん休日含めてだが)という残業がザラにあった仕事量が、目に見えて減少した。プレゼンテーションの確率も徐々に低くなっていった。そして何より、料金形態が変わり、出入りしていた外部スタッフもめっきり減っていった。更に、売り上げの減少によってボーナスが少なくなった。

 同業者も同じ状況であった。
 玉垣は、それから間もなく退社した。
 退社した理由は、景気や給料の問題でもなく、会社に問題があったのでもない、まったく個人的な問題であった。

 玉垣が退社してすぐにバブル崩壊が始まった。
 そして、そのまっただ中で社長の片山が病死した。
 玉垣がいた会社も例外なく、崩壊の煽りを受け、120人以上いた社員を50人近くリストラ整理して、土佐堀の自社ビルに帰った。
 それから1年後であった。

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 1995年1月17日、午前5時46分。
 神戸・淡路中心にした大震災は、広く京阪神に未曾有の災害をもたらした。
 土佐堀界隈の被害も大きかった。古いビルは傾き、ガラスが割れて道路やそこかしこに散乱した。全壊した社屋も少なくない。エレベーターが途中で止まり、何時間も閉じ込められた人もあった。

 アスファルトに亀裂が走り、捲れ、畝っている。高速道路の橋脚にヒビが入り、コンクリートの破片が飛び散っている。橋の継ぎ目に隙間がある。段差がある。
 走行不能になったクルマが、あちこちに放置されたままである。

 玉垣のいた会社は・・・なかった。1階のフロア部分を残して・・・なかった。
 玉垣たちが昔の賃貸ビルから土佐堀のビルに移る前、内装工事が終わってすぐに見学に行った。築10年以上とはいえ、内装をし直しているので奇麗なものだ。塗料や接着剤の揮発臭がまだ残っていた。

 新しく張り替えたPタイルのフロアの真ん中に立ってみる。
「自分たちのビルだ」という感慨が湧いてくる。「これからは誰の遠慮も要らない。いくら残業してもいいし、ビルの管理人に気をつかわなくてもいい」なんて、つまらないことを真剣に考えて、感動さえしていた。

 つづく

ルーツは竜馬??

2008.07.15 (Tue)

天地がひっくり返ってもそんなことがある筈はない。だいいち、竜馬が京都で活躍していた頃、既に我が家の先祖は播州の片田舎に住んでいたらしい(はっきりしないが)し、それ以前に四国から移住したという話しも、平家の落人ではあるまいし、その時代の感覚からしてあり得ないことである。

話しは飛ぶが。
かつて我が家があった村には同じ苗字が多かった。まあ、日本のどの田舎でも似たようなことはある。中には地名がそのまま苗字になったケースもある。

何故そういうことになったのか、特に調べたことはないが想像はできる。
昔の平民は、もともと苗字を持たなかった。荘園制度によって土地を所有していた名主が、その村に自分の名を付けて名田とした。つまり中村郷の次郎兵衛といった感じである。

その後、荘園制度が廃止され、明治初期に一人の人間として「中村次郎兵衛」と名乗り、小作人たちも独立して個々に苗字をもつことが許されるようになったのだろう。アバウトだが。

苗字からかつて先祖が暮らした地域や職業が伺われると聞くが、どうやらそういうことのようだ。
たとえば、馬を扱う仕事であった場合は「馬場」であったり、田中や田畑が農民であったり、森や林が林業、宮本や宮成が宮司であったりと、先祖がどうのような暮らしぶりであったか想像すると面白い。

苗字で面白いのは、古の大和の時代から今日まで同一名を継承している家があれば、何度も変えられ、それが許されたという。(もっとも自分の存在を秘匿するために何度も、あるいはいくつもの名前をもった者はべつとして)

身近な例をいうと、父の弟(叔父)が結婚した時、実家である我が家の性を名乗らず、かといってお嫁さんの実家の性でもない新しい苗字を考えたのである。もともと叔父の職業で、石屋(石垣の石や墓石などを彫る仕事)をしていた関係で「石本」性を名乗ったらしい。

それはさておき、ともかくボクの村は同じ苗字が多い。特に多いのは。田中、福井、小谷、中村である。そういう意味においてこの村も、かつて地主制度があった時代の同族の集団であったことは間違いないだろう。

ところが夏海家(本当は坂本。ここに限り本名でいう)は、この村で1件だけであった。(もっとも35年前に、その村からも引っ越して出ていったのだが)

坂本家が春来村に移ったのは明治の末期であったらしい。それからボクで7代目になる。が、父親の兄弟も祖父の兄弟も、別姓を名乗るか村を離れてしまっていたので、この村では我が家だけであった。

春来村に移る前、要するに明治末期以前、坂本家がどこから来たのか、分からない。父もはっきりしたことは分からないらしいが、話しによれば、江戸の末期には既に播州に住んでいたと、父がまだ若い頃、祖父(ボクの曾祖父)に聞いたという。

また、「オヤジ(ボクの祖父)の弟の話しでは、播州の前は四国にいたらしい」という。「らしい」ばかりで、もうその時点で空想の世界にいるようだが。
ともかく、父のいうことが本当なら、江戸の末期に四国から播州(姫路の西方面)に移り、明治末期に播州から但馬に移ったことになる。

だいたい人は、突然、降って湧くことはないので、ルーツを辿れば一匹のサルに戻るだけだ。

小学校のある社会科の授業の時に、教師にその話しをしたことがある。クラスの多くは、もともとその部落で暮らしていたのだが、ボクだけが違っていた。

ボクは父から聞いたことをそのまま話した。するとその教師は、「お前の祖先は、ひょっとするとサカモトリョーマかも知れんぞ」と言った。その頃、サカモトリョーマが何者か、ボクには知る由もなかったから、教師が黒板に「坂本竜馬」とチョークで書いた時、「カッコエーナー」と反応するしかなかった。

案の定、学校で暫く「サカモトリョーマ」がボクのあだ名になった。

会ったこともないボクの曾祖父や祖父の弟の話しが、仮に嘘であっても、江戸期、武士のはしくれであった(これも、らしい)ことも、四国からの移住者だった話しを含めて、珍しくもない坂本性がそのまま坂本竜馬につながるなど荒唐無稽ではあるが、正直、信じたい気持ちである。

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コブシの誘惑。

2007.03.08 (Thu)

3月。
さすがに我が村も雪解けとともに、春の兆しが漂い始める。とはいうものの、その日から「春だ」というのはない。家の周辺の日陰や陽の当たらない谷間などには、まだまだ黒く染まった根雪が、そこかしこに残っていて、遅い場所では4月まで持ち越すこともあった。

春霞にけむった遠くの峰は、穏やかな季節の到来を告げる。枯れ葉色の山々にもちらほら野生の花が脹らみ始める時。

温暖な地域とは半月ほど遅いこの時期、平地でよく見かけるのは「フキノトウ」だ。しかし、それより早く咲く「雪割草(福寿草)」を、ボクは見た記憶がない。その理由は平地では咲かないし、雪が深過ぎるから見れる場所まで行けないのだ。
「フキノトウ」が顔を出す頃、山では真っ白くて大振りの「コブシ」が花弁が開き、なにやら甘い香りを放って誘惑した。しかし、その香りが子どものボクに分かる筈がない。

「コブシ」の花弁は、大人になった今も気になる存在である。が、まさかに「コブシ」に性別があろう筈はない。
葉っぱが出ない内にさっさと咲き、葉っぱが出始めると、またさっさと散ってしまう。だから、紛らわしい色彩がないだけ、多少離れていようが目立ってしまうのだ。我が家の向いの薄茶色一色の山に、それが何本かあった。ボクは何故かそれに誘惑されるまま山に入るのである。

遠くからは容易く手が届くかのように見えるが、近づくほどに難儀さが分かってくる。傾斜度約70度。殆ど絶壁である。しかも咲いている花は手の届くところにはないし、ツルツルした木肌は、まるで拒絶するかのようだ。
そこまでして危険極まりない崖を何故登のか、深く考えたことがなかった。ところが命をかけて採った「コブシ」をどうしたか、それも記憶がない。

最近、その「コブシ」の花を見る度にふと思い出し、それがどういう理由であったか、不毛な思案に耽ることがある。そしてようやく思い当たったのは、ボクの友人が丹後で田舎暮しを始める時だった。
友人の新居は、寒い丹後ののどかな田園地帯の中にあった。ボクはその友人に頼まれ、ロケハンと称して同行した。大阪のある会社が保養施設として利用していた中古物件であったが、約100坪ほどの敷地内に、黒い木の骨組みと漆喰の民芸風な造りは立派は新居であった。

小さいながらも菜園があった。家の周辺には、手入れされた様々な植木があった。彼が引っ越しして半年後に、再び訪問した。
中山寺に住んでいた頃あった数種の植木と果樹が、新たに加えられていた。ところが玄関の前にあった多くの「コブシ」の木が、何本か切り倒されていたのだ。春一番に見られる「コブシ」に囲まれる暮らしが、どんなに羨ましかったか、知ってか知らずか惜し気もなくである。

友人の言うには「他の木を植えたい」とのことだった。そして、何故そんなことを訊いたのか不審げに見ていた。

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羊羹林(ようかんばやし)とキツネの嫁入り

2007.03.01 (Thu)

晴れた日に、どういう訳か雨が降ることがある。また、雨が降っているのに突然晴れたりすると、「キツネの嫁入り」などと言われる。特に珍しくもない誰でも見たことはあるだろう、極ありふれた自然現象のことだ。

その「キツネの嫁入り」にまつわる話しは数多くあった。いずれもボクが小さい頃の話しだから、曖昧で記憶に殆ど自信がない。その中で面白い話しがあった。たとえば、夜の山に狐火が乱舞している様子が、人間でいう婚礼の提灯行列に見えるが、実はキツネが化かしているのだとか言ったり、キツネが嫁入りを人間に見せないために雨を降らせているとか、キツネの嫁の涙だとか。他にも、人間が嫁入りを見てしまうと災いが起こるなど、不気味な言い伝えもあった。

「人を化かす」動物はキツネに限ったものではない。そういう意味で言うと、あのひょうきんなタヌキだって劣ってはいないだろう。
ところで、野生のタヌキを一度だけ見たことがある。と言っても、生きている姿ではなく、近所でタヌキ汁をご馳走になった時だ。ご馳走になる前に、ぐったりした黒い塊をチラッと目にしただけで、それまでは、我が村にタヌキが住んでいること自体知らなかった。

タヌキが木の葉を頭に乗せ、ドロンと消えたり、木の葉をお金に変えたりする話しは、古きよき時代の郷愁さえ感ずる。
「タヌキおやじ」とか、「キツネとタヌキの化かし合い」などと、人を騙したり、腹黒く良からぬことを考える人間のことを、キツネやタヌキにたとえて、比喩されることでも知られているように、何かとこの動物たちは、昔から人間と深い関わりをもっていると言えよう。

ところで、ボクの生れ育った村に「羊羹林(ようかんばやし)」というところがある。
「その林を通る時は気をつけろ!」
そんなことを小さい時、何度か聞いたことがあった。

我が家の向いの国道を挟んですぐのところに、高い山がある。段々畑の間の急勾配の道を上ると、畑の中ほどに墓場がある。道は、墓場で遮られる位置にあるので、どうしてもその墓を避けることはできないのだ。
10段あるかないかの段々畑なのに、行ったり来たり、いわゆるスイッチバック式のように上り、間もなく深い森に入る。老木の多い森の中は、陽の光が遮られているため雑草が伸びない。

山道を1時間ほど上ると、なだらかな丘陵になる。稜線沿いの細い道は、森から林、林から急に明るく開けたりだらだらと続く。杉林の中に腰高のドクダミ(薬草)が密生し、春になれば驚くほどのゼンマイやワラビ、ウドやタラの芽、そして山苺の花が咲き乱れた。

そんな道を歩いている内に、あの「羊羹林」に差しかかる。足元には牛のフンが点々と落ちていた。母の実家は、牛のフンが点々とする「羊羹林」を抜けたところの部落にあった。もっとも、そこへ行くには5キロ離れた温泉町を経由する、安全なコースがあるが、「羊羹林」のルートの3培以上はかかるので、もっぱらこの危ないルートを使っていたのだ。

その「羊羹林」が何故そう呼ばれたのか。
ここからが笑ってしまうほどの、実に幼稚で罪のない話しだ。
―――昔々、ある村の老人が「羊羹林」を歩いていたら、ひょっこりと、それはまあ美しい女性が現れた。『これこれ娘さん、ここは獣が出るから早々に帰りなさい・・・』と老人が言うと、『ダンナさんご親切に・・・。それより美味しい羊羹はいかが・・・』と言って、竹皮に包まれた羊羹を頂いたそうな。老人は喜んだ。そして、家へ帰って早速食べようと包みを開けると、竹皮から出てきたのは、なんと牛のフンであったと。―――

牛のフンは確かにあの林に落ちていた。キツネがタヌキか知らないが、木の葉をお金に変える要領で、牛のフンを人様に食わせようとしあがる。と、怒ってみても後の祭りである。
「カチカチ山」、「タヌキの歌合戦」。そして「捕らぬタヌキの皮算用」。諺にしても物語りにしても、健康的で何となく郷愁を誘い、のどかな田園風景を連想してしまうが、それに比べて人間社会の、何と醜いことだ。

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エロ写真の衝撃とストリップ劇場

2007.02.01 (Thu)

隣の温泉町に数件のストリップ劇場があった。そこは町の中心地から少し外れた、薄暗くて細い裏通りにあって、ポツンポツンとピンクや紫色の行灯が、さも淫乱な光を放っていた。

中学時代の友人の家が、そのすぐ近くにあった。昼間はさすがに行灯も消され門も閉ざされたままで、あの艶かしい雰囲気はなかった。入口付近の行灯の下には「18才未満お断り」のプレートが貼られていた。

しかし、その年頃となれば如何ともし難い誘惑に負けそうになるものだ。いくら行き先が友人の家といえども、通りすがりに覗きたくなるのが人情だし、仮にそうはしなくても、不自然な歩き方になるのが自分でも分かっていた。

傍目を気にする親たちが、もし見ていたらと思うと過剰なほどに意識してしまうものだし、親でなくとも挙動不審に見えたに違いなかった。しかし、かといって他に道がある訳ではない。友人のところに行くには、どうしても「18禁通り」を避けて通れなかったのだ。

ある日、5才上の友人の兄が数枚の写真を見せてくれた。友人は写真のことは既に知っているらしく、平気な顔をしていたが、ボクは愕然とした。秘めたる男女の交わりが、まさに行われていたのであった。写真はサービス版で3枚あった。向い合った形の真上からと男の股間の後ろから撮ったもの。もう1枚は妙に複雑な形をしていたということしか憶えていない。

「あっ、漁ちゃん赤こうなっとる」
友人の兄は、ボクを指差して笑った。
ボクは目のやり場に困ってジュースに手を伸ばした。コップを持つ手がカタカタ震えていた。探るような目で見ていた兄が、腹を抱えて大笑いした。
小さい頃、「家庭の医学」の中にあった症例写真で、裸の女性をこっそり見たことがある。その時も同じように身体が震えていた。それ以外にも雑誌などで女の裸くらいは何度も見たが、写真とはいえ、実際その行為を見たのは初めてであった。

その夜、ボクは眠れなかった。頭の中は、あの写真のことで渦巻いて一睡もできなかった。

その日以来、ボクは女を見る目が一変した。クラスの女子を見る度に、あの衝撃のシーンが散らつき、女先生の後ろ姿を見るだけで下半身が熱くなってしまった。
「漁、お前、何見とるんや」
女先生の後ろ姿に釘付けされているボクを見て、兄と同じように指差して笑った。

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「ほっぺたが落ちる」地鶏のすき焼き。

2007.01.12 (Fri)

パタパタパタパタ・・・、コッコッコッコッコッコケコッ・・・。
正月の準備が終わった日の午後、縁側でけたたましい鶏の鳴き声が聞こえた。ボクは慌てて表へ飛び出した。
「漁、一羽潰すから手伝ってくれ」と、父は言った。
「父さん、一羽だけにしといてや」
「来年また、ひよこが生まれるからええやろ」

毎年、恒例の罰当たりな行事が行われようとしていた。それは、盆と正月の前に決まって行われた。
鶏のめんどうはボクの役目になっていたので、毎回罪悪感に捕らわれた。それに人間に食べられることを知ってか知らずか、毎日玉子を産み落とす鶏を見ていると、何だか可哀想な気さえするのだ。しかし、だからと言って潰すことをやめろとは言えなかった。
いくら我が子のように可愛がっていたと言えども、ほっぺたが落ちそうな「すき焼き」を想像した以上、どうしようもない。食欲には勝てないのである。

ボクは、鶏の首と足を掴んだ父の後を追って、下の畑の山椒の木の所へ行った。
「漁、お前の好きなすき焼きするんや」

そういうと父は、山椒の木の下で鶏を抱えたまま、両手を合せた。ボクも父にならった。そして、足をバタつかせている鶏の首を掴んで、咽の辺りに包丁を入れた。
鶏の首から鮮血が迸った。白い雪面が赤く染まった。鶏の首がダラリと下がった。

「よしっ、こいつの足を持っといてくれ。羽根をむしるからな」
鶏の足は硬くて冷たかった。
父は、ダラリと項垂れた鶏を大事そうに抱き、羽根をむしり始めた。むしる度に首がプラプラと揺れた。

「ちょっと触ってみ。まだ温いで」
父の羽根をむしる手が、心なしか慈しむような手つきになって見えた。
「まだ温いな。人間より温い」
ボクは、鶏のお腹の辺りを摩って言った。
羽根をむしり終えると、首と足を切り落として、山椒の木の根元に埋めた。そうして再び手を合せた。

肉の塊となったそれを家に持って帰り、毛羽立った皮膚を炭火で炙って、表面の手入れをした。そして、まだ温もりのあるお腹に包丁を入れた。
「分かるか。これが心臓やで。で、これが胃で、その裏にあるのが肺や。これ、何や分かるか?」
赤黒い饅頭のような物体である。ボクは指で押してみた。弾力はあるが、若干硬い。
「それは砂ずりというもんや。人間にはないもんやな」と言いながら、内臓を手早く切り取った。肺は鮮やかなピンク色をしていた。お腹の中央に、鈴生りの玉子が見えた。それは大小無数あった。
父は、ぶどうの房のようなそれを切り取り、それだけ器に置いた。

ボクの田舎で「すき焼き」と言えば、牛肉ではなく鶏肉が主であった。それも地鶏だから脂がのって味も濃い。「すき焼き」の中は、鶏肉を中心に、白菜、ごぼう、糸コン、焼き豆腐、ねぶか、椎茸、人参、春菊、それに焼き餅が入った。
あれから40年経つが、あれ以上旨い「すき焼き」を食べたことがない。
5年ほど前に友人と、神戸の三ノ宮で食事をする機会があって、センター街の裏手のこじんまりした店に入った。「すき焼き専門」と看板が出ていて、その肩に「大分の地鶏」とあった。もちろん神戸牛がメインであったようだが、ボクは迷わず「鶏すき」を注文した。美味しかった。美味しかったが、しかし、40年前のあの味とどこが違った。


地鶏.jpg

善人の宿。

2006.12.16 (Sat)

「悪たれ小僧」の家は村の一番上にあった。国道から脇道に逸れたところにH川に架かる高い橋があって、「悪たれ小僧」の家のことを高橋(たかばし)と別称されていた。脇道は、更に奥に入ると小学校のある山の上の村に繋がる山道と合流していた。学校へは国道を使ってもよかったのだが、その方が短時間で行けるので、もっぱら山道を通学路にしていたのだ。

山道は細く、急勾配で険しい。馴れない通行人は、この山道に辟易して徒歩で二度目にくることは殆どないが、それでもボクたちと同じように毎日通う人がいた。小学校の先生や郵便配達員である。他には、週に二度ほど来る魚屋とか保険屋だ。時には富山の「まんきんたん」も通った。

「悪たれ小僧」の裏庭の隅に、井戸とは別に清水の出る小さな池があって、年中冷たい水が湧き出ていた。夏にはスイカやマクワ瓜やビールを冷やしていた。ビールは程よく冷えて、コップに注ぐと水滴がつくくらいの天然の冷蔵庫になっていた。

村の人たちはもちろん、湧き水の噂を耳にした郵便屋や行商人たちも、好き勝手に利用していた。
湧き水のところに行くには、我が家の縁側を通らなければならない。だからそこへ行く前に、縁側で一声かけて、返事を待たずに裏庭へ回るのだ。声だけで誰が来たのかすぐに判った。村の人の声も判っていたし、毎日寄る郵便屋も判った。行商人に至っては、担いで来た荷物を縁側にドカッと置き、裏へ回っていった。

峠越えする人の中には、芸人やポン菓子屋もいた。変わったので乞食もいた。乞食のことを昔、ルンペンといって、それはすぐに判った。薄汚れた粗末な世帯道具を持てるだけ持っていたからである。

ある日、インテリ風なルンペンが訪れた。大きなリュックにアルミ製の食器をぶら下げ、カラカラといわせながら縁側に近づくと、その薄汚い持ち物を板間に置いた。それからダミ声をかけたのだ。「悪たれ小僧」は、父親と話し込んでいるのを座敷きの陰で聞いていた。

話しはだいたいこんなことであった。
「自分は医学を志して病院に勤めていたが、病院側と対立してそこを飛び出し、東洋医学なるものを広めるために、全国を行脚しているのだ。これから峠越えして姫路の方へ向かわねばならない。そこで、こちらに一泊させてもらいたいのだ。お礼に東洋医学なる術法を無料でさせて頂く」と、そんなようなことであった。

その話しを母親も聞いていた。母親は長い間、心臓を患っていたので、ことの外顔色が悪かった。インテリルンペンは、母親の青白い顔を見て即座に言った。「奥方は顔色がお悪いようだ。何か患っておられるようだったら、私が看て差し上げよう」と。

心配そうな父と母の顔を見て、「なに、心配はご無用。私の術法は身体の中の悪い血を、簡単な方法で抜くだけだ」と言った。それから父たちは、インテリルンペンから、その術法とやらを詳しく聞いていたようであったが、「悪たれ小僧」には殆ど理解できなかった。

とうとうインテリルンペンは、我が家に一泊することになった。彼は、まず風呂に入った。ところが夕食の準備が終わったというのに、一向に出てこなかった。夕飯が冷める頃にやっと出て来た彼は、来た時とまるで違う真っ白な顔をして、20才ほど若返ったように見えたのだった。

彼は夕食を済ませると、母親を床に寝かせて、湯呑み茶碗をあるだけ準備させた。そして、10cm角に切った新聞紙を更に4つに折って燃やし湯呑みに入れて、上半身裸の母親の背中に被せていった。母親の背中は湯呑み茶碗だらけになった。

数分後に湯呑みを取ると、お椀型の赤黒い斑点が背中じゅうについていた。それで悪い血が抜けたかどうか不明だが、とりあえず東洋術法なる行為は終わった。しかし、彼が入った後の風呂には、誰も入ることはなかった。

後日、父親は言った。「あいつ、騙しあがって・・・」と。ボクは、気がつくのが遅いと思った。インテリルンペンは、メシを食い、暖かい布団で寝、湯舟に大量の垢を残して去っていったという。
人の親切を利用し、善人を騙す輩がいるのは、いつの時代でも同じである。

「ダルタマ」の呪い。

2006.12.15 (Fri)

生まれつき「悪たれ」であったかというと、そうでもない。
それは消えかかった記憶の片隅に残っていた。

祖父が天敵に変貌する前、ボクは虫歯だらけでひ弱で怖がりであった。虫歯には今でも悩まされることがあるが、その頃(3才くらい)、痛む度に父親の自転車に乗せられて、隣町の歯医者まで通ったものだ。虫歯だけではない。風邪をひいたりお腹をこわしたり、そんなことが度々あって、親たちに「この子は長生きできない」と思われていたようだ。

近所に「徳一(とくいち)」という、暴れ者で有名な村の鼻つまみ者がいた。何でそうなったかまるで憶えていないが、ある日、その徳一に殴られて、泣きながら帰ったことがあった。
「トクイククン(徳一君)がカンカンした」と大泣きして訴えると、玄関で待ち構えていた祖父に、間髪入れず殴られた。そして祖父が言った。「男のくせしあがって、メソメソ泣くな。キン○マ切ってしまうぞ」と。キン○マ切られてはたまったものではない。ボクは、その言葉に怯えたのかどうか憶えていないが、とにかくそれ以来、泣かない子になってしまった。

もうひとつ、ボクには呪うべき過去があった。村の中ほどに、祖父に匹敵する悪魔がいた。老いぼれて鬼のような父親をもつ娘(娘といっても、当時40才は過ぎていたと思う)・Mババアであった。「Mババア」は父親に負けず劣らずの悪魔であったし、ボクの母親の天敵でもあった。

ボクは、その悪魔親子に遇うのがことの外、嫌であった。赤剥れして脂ぎった大きな顔には、吹出物がブツブツと出ていて、三白眼は吊り上がり、まるで怒った顔をした「達磨」のようであった。

「Mババア」と目を合わす度に、ひ弱なボクは母親の後ろに隠れて震えた。母親はボクを庇ったが、それを無視して「Mババア」は悪態をついた。そんな「Mババア」を、母親は憎んでいたが、どういう訳か愛想笑いしていた。

ボクの寝間の鴨居の隅には、ポツポツと穴の開いた赤い風呂敷包みが、いつからか掛けてあって、それがちょうど「Mババア」の顔に似ていた。「Mババア」に虐められるようになってからというもの、夜中に目が覚めて、鴨居の赤い風呂敷包みを見て「Mババア」を思い出し、一時期、寝小便をする癖がついたようだった。「Mババア」を思い出し、うなされて「ダルタマ・・・」と叫び大泣きしたのだった。

「トクイククン」の一件で祖父に殴られ、「悪たれ」として生まれ変わったボクは、それ以来「Mババア」を恐いと思わなくなった。それどころか、「ダルタマババア」とか、「ダルタマ悪魔」などと逆襲するようになった。「Mババア」もそれ以来、ボクを怖がらせることを諦めた。

だるま.jpg

正月の記憶。

2006.12.14 (Thu)

♪もういくつ寝るとお正月・・・・・♪ 
忘れられてしまった、遥か遠い記憶である。日本には、かつて節目節目に記念日があり、歳事というものがあったが、現代の日本の中からその古の習慣が茶の間から消え、地域から忘れられてしまい、クリスマスやバレンタインに浮かれるようになってしまった。

クリスマスやバレンタインを否定するものではないし、確かにボクの小さい頃にもそれはあった。しかもサンタクロースの存在だって疑いもしなかったのだから、その頃から楽しいイベントは拒むことをしなかったと思える。
ところが、正月はそれらと違い、全く別の次元で厳粛な行事であった。

新たな年を迎える晴れがましさに加え、我が家でも、日本古来からの神聖なものとして扱われていた。それは年の瀬から大掛かりに始められた。大掃除から始まり、しめ縄作り、餅つき、おせち料理と家族全員でやらねばならないものであった。というより、そうしなければ取り返しのつかない、一種の脅迫観念めいたものが、ボクの中につきまとっていたのだと思う。

田舎の家は、3LDK・20坪のマンション暮らしと違い、とてつもなく大きかった。そのために体力を温存しなければ、とてもできないことであった。新年を迎えるのは人間だけでなく、家畜だって同じだった。
牛の納屋の掃除は父親の仕事であった。まず、牛を寒空の中に連れ出して、糞尿の混じった寝床を外へ掻き出した。これがとてつもなく重いのだった。そして小屋の中を水洗いして、新しい寝床を敷くのである。新しく浄められた寝床は、さすがに牛も機嫌がよかった。

しめ縄も店で買うことはなかった。総て自分たちで作るのだ。そのために父親は雪の降る山に出かけて「榊」の枝を採ってきた。そして、乾燥させた稲穂を捌いて大小のそれを作るのだ。
家にはあらゆる場所に神が存在すると言われた。水回りや納屋、農機具小屋、井戸、そして神棚から玄関に至る総てを祀るのだから、それだけでも大掛かりであった。

餅つきはボクにとってイベントのひとつであった。餅は神様に供える鏡餅とは別に、保存食としての習慣があったため大量に作られたのだ。餅米15升。それを洗い、山ほどの薪を持ち込んで、ニ穴のクドに大鍋を置いた。台所の板間に簀の子を置いて、せいろが天井まで積み上げられる。そして木うすを土間の中央に置くと、神仏に手を合せた。そうしてまる一日がかりで餅つきが行われたのだ。

餅つきが終わると再び台所が慌ただしくなる。おせち料理のしたくである。その頃になると、さすがに疲れ果ててしまっていた。
紅白歌合戦もそこそこに、それは除夜の鐘が鳴り始める直前まで続けられた。そのために特別に設けられた棚に、収納し切れないほどのおせち料理を、ボクは美味しいと思って食べたことがない。脅迫観念めいたものが邪魔をしていたのか、不平を言うことはなかったが、あんな旨くないものを、どうして大人たちは美味しそうに食べられるのか不思議であった。

核家族が定着した現在、かつてあった神聖なる行事は忘れられつつある。鏡餅としめ縄はスーパーで買い、屠蘇は薬局で求め、おせち料理に至っては仕出し屋かどこかに予約する。後は、こたつに入ってインスタントのソバを食べながら除夜の鐘を聴く。そんな怠惰な年末年始に慣れてしまった今日この頃である。

悪ガキのもうひとつのイベント「かまくら」につづく。

yukiguni.jpg

3才の記憶。

2006.12.09 (Sat)

かすかな記憶の中に不思議な、そして夢のような風景がある。それは薄暗い空間の中で、大勢の人たちが忙しく行き交う風景である。
太い柱を何人もの職人が担いでいる。大きな鋸で木を切る人がいる。それを削る人がいる。大きな木鎚で柱を打ちつけ、組み立てる。女たちが炊き出しをし、酒が振舞われる。低く煤けた天井が、徐々に明るく広くなっていく。今にも潰れそうであった母屋の隣の納屋が、大きく立派になっていった。

ボクは、それを小さなファインダーの、しかも低いアングルで記憶に焼きつけていた。ボクは、それは夢だと思っていた。

社会人になったある日、そのことを父親に訊いた。驚いたことに、それは現実であることが分かったのだ。

ボクが3才の時に、家の改築工事と納屋を新築したというのだ。その頃ボクは、当然歩いていた筈であるが、ローアングルで見たその風景が、まるでハイハイの体形で見ていたように、視野の下半分が畳で占められていたのだった。

幼児期の記憶を持つ人の話しは時々耳にするが、さすがに父は驚いたようだ。何故かというと、大工さんたちの意味不明な会話を鮮明に憶えていたからである。たとえば「この柱の目(木目)は良くないから支えには使えない」とか、「乾燥し切っていないから腐りやすいし、いずれ虫が食う」などといったような会話であった。大人の耳ならば即座に理解できるが、3才のボクにはただの声でしかない。その声だけを記憶していて、後年思い出したのだった。

あの時、あの大工さんの言っていた柱がここに使われている。あの時の乾燥し切れていなかった柱はどうなったのか。そして、左官の人が言っていた土壁造り。あの土の配分。赤土に短く切った藁と塩を混ぜて、一畳ほどの鉄板の上で、両サイドから二人の職人がスコップで捏ねていた。水の分量は。張った竹格子に細い縄を巻き付け、捏ね上げた土を木ごてで塗っていく。「下の隅から上へ押し上げるように」と、おそらく弟子にでも教えていたのであろう。若い職人の腕が、小さなファインダーの中で、自信なさそうに竹格子に挑んでいく様子が焼きつけられた。

大工の棟梁は父の同級生だと知った(彼は後年、木出しの時に事故死したと聞く)。棟梁は、屋根のない木組みだけの玄関脇で、カンナの刃を研いでいた。ボクはその横でじっと見ていた。
時を忘れた機械仕掛けのように、正確に砥石の上で刃が滑る。

棟梁の手が止まり、水桶の中で鏡のような刃が白く光る。棟梁はボクを見てニヤリと笑った。そして、その刃をヒゲ面に当て、滑らせた。
「どうじゃ。カミソリみたいじゃろ」
刃はカンナの台に収められ、白木の上を再び滑った。まるで羽衣のようなそれが、ヒュルヒュルと宙を舞った。

それは、夢のようであった。

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