昔遊びと悪ガキ

キラキラとした別世界。・・・今考えると、これほど外の世界が魅力的に感じた時代はなかった。

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友逝く。

2015.12.12 (Sat)

ケイタイやメールが主流になってからというもの、めっきり手紙を書くことがなくなった。

『手紙ひとつ寄越さない』と、よく怒られたりしたものだが、最近では罪悪感すらない。困ったものだ。

電話だと余計なことも、つい言ってしまったり、第一長くなる。それが嫌で、ほんの数行のメールで済ましてしまう。失礼だったかも知れないと思いつつもだ。
本当に悪い習慣が染み付いてしまった。

kaki

でも、年末のこの時期になると、そうは言っていられなくなる。年賀状である。以前は楽しみにしていた。じっくり時間をかけて「今年はどんなネタでいこうか」などと考えたものだが、近頃は面倒で憂鬱になってしまう。

「そろそろ止めたらどうか」という声もあるが、律儀な方には返さねばならない。

年賀状の準備は、喪中ハガキの到来でもある。今年は既に4件届いている。
大方はご高齢であって不謹慎ながら納得するのだが、そうでない場合はショックである。

十数年前に何度か仕事をし、それ以来の友人・E氏である。
彼とは昨年の秋頃に会った。その時は既に、かなり痩せていて、病名も知っていた。ほぼ2時間ほどコーヒーを飲みながら、積もり積もった話をした。実に明るい表情であった。

まさか、それが最後になるとは。
彼はふたりっきりの母子家庭であった。母上は心臓を患っていて、晩年は車椅子生活を強いられ、最後は他臓器不全で寝たきりであったという。

E氏とは何故かウマが合い、毎週のように心斎橋の茶店で文学談義に花を咲かせた。
ボクが下手な小説を書き始めたきっかけは、彼の影響でもある。

あの時を最後に、パッタリと音信がなくなった。電話もメールも一切、返ってこなくなった。
入退院の繰り返しの上、母上の見舞いでそんな場合ではないと、そう思っていた。

E氏は母上に、病名を明かさなかったふしがある。しかし入院時、母上の面倒を看ることができないので施設に預け、病院と施設を往復する生活が続いた。
無機質な病院で数週間暮らし、一時帰宅には施設に向かう。そんな生活である。

音信がないまま、ほぼ1年が過ぎた。
何となく嫌な気がした。
そして、訃報である。

顔を合わせたことがないヨメも、泣いていた。

差出人は従兄弟に当たる方のものであった。
それによると、昨年末12月の29日に母上が旅立ち、翌正月の6日に息子・E氏が後を追ったのだという。

母子二人きりの、仲のいい親子らしい旅立ちである。
母上は車椅子だから、息子はすぐに追いつけた筈である。

車椅子を押しながらスーパーへ行き、散歩し、街を歩き、小さな旅をした。
エレベータが利用できる駅、車椅子で行けそうなルートをパソコンで検索した。
レストランへ入るのも大変であったという。

あれから1年。彼は母上の後ろで笑いながら、小さな旅を続けているのだろう。
悲しいが、母上と二人というのは救いだったかも知れない。


どうか、安らかに・・・

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ネットにトラブル

2015.08.21 (Fri)

10日ほど前からネットが不通状態に。

PCのEthernetが接続不能。

PC自体のトラブルかと思い、心斎橋のアップルハウスへ。

昼過ぎに行くと、受付に50、60人の行列。

1時間並んだ末、それが受付申し込みの予約だと分かった。

とりあえず、予約だけして後刻(夕方5時以降)行くことに。

一旦家に帰り、夕方店の近くの茶店で連絡待ち。

ようやく連絡が来たのが夜7時過ぎ。

そこでまた延々待たされ、PCの梱包を解き、ネットを接続。

だがPCに問題無しと判明。

であればどこに?

怪しいのはネットの中継機器らしい。

ということで、このブログ更新は会社からすることに。

只今、家からのネット操作(FB含む)、不能。

多方面の皆様、今暫くご容赦を。


2013 世界の経済大国のうち最も空気が汚染されている都市ワースト17

2013.10.03 (Thu)

世界で最も空気の汚染されている都市ワースト10に中国の7都市がランクインしていることが発表されましたが、今度はWHOの情報をもとに国ごとの比較を行い、世界の経済大国の都市のうち最も空気が汚染されている17都市がThe Economistから発表されました。

mihon.jpg

http://gigazine.net/news/20130118-the-most-polluted-cities/

ランクインした17都市は以下のような感じ。1位は他の都市と大差をつけることとなったインドのルディアナ、2位に中国の蘭州、3位にメキシコのメヒカリが続き、日本で最も空気が汚染されているとされた大阪は16位となりました。なお、調査は空気1立方メートルあたりに含まれる直径10ミクロン以下の粒子状物質の量を比較して行われました。以下の通りです。

1位_ルディアナ(インド)
1-インド.jpg

2位_蘭州(中国)
2-蘭州-中国.jpg

3位_メヒカリ(メキシコ)
3-メキシコ.jpg

4位_メダン(インドネシア)
5位_安陽、釜山(韓国)
6位_ヨハネスブルク(南アフリカ)
7位_リオデジャネイロ(ブラジル)
8位_トリノ(イタリア)
9位_セビリア、サラゴサ(スペイン)
10位_パリ(フランス)
11位_ベーカーズフィールド(アメリカ)
12位_モントリオール、サーニア(カナダ)
13位_モスクワ(ロシア)
14位_ドレスデン(ドイツ)
15位_ロンドン(イギリス)

そして、ついに不名誉なことに、我が大阪が16位にランクインしたのです。
16位_大阪(日本)
16-大阪.jpg

17位_ブリスベン(オーストラリア)


ちなみに、世界でもっとも汚染された10の都市
http://gigazine.net/news/20070518_world_dirtiest_cities/



悲しいできごと

2012.11.28 (Wed)

このことは、このブログの趣旨と違うから
書くつもりはなかったが、思い出のひとつとして
書いておくことにする。

歴史のことなら、どこかの学者も敵わないほどの知識者で、
詩を詠み、記憶力抜群で、カメラが好きで、一人旅が好きで、
思い立ったらどこへでも行く。

そんな義母(ヨメちゃんの母)が突然、永眠した。

齢88歳。
今年、米寿の祝いをしてそれほど経っていない。
去年から鎌倉に行きたがっていた。

今年はヨメちゃんの都合がつかないから来年にと考えていた。
ボクも密かに鎌倉の旅のプレゼントを用意していた。が、
ヨメちゃんの後悔は、一生つきまとうことだろう。

大好きだった奈良。
奈良には万葉の世界が広がる。
だから何度行っても行き足りなかったという。

ボクの家族が奈良で暮らした17年間で
何度、九州から来たことだろうか。・・・憶えていないくらい。
ボクたちの都合がつかないと、一人でアチコチ歩いていた。

ボクが案内した場所は、ひとつ残らず憶えていた。
ほお骨が出て、目が落窪んで、苦しいほどに息切れさせながら
その記憶ひとつひとつを辿り、話してくれた。
ボクが忘れていたことの方が多かったけど。

ボクが歴史の興味を持ち出したのも、たぶん義母のお陰かもしれない。
もっとも、得意なのは幕末前後なんだけど。
でも、義母はその時代にはあまり触れたくなかったようだ。
何故だかしらないけど。

時に、ボクの得意な時代の話しをしていると、
フンフンと、最初は聞いているが、
知らず知らずの内に義母は、自分の得意な奈良時代へ
引き込んでしまう。

随分勝手な義母だったけど、でも、話しは尽きなかった。
そんなやり取りを、そばでヨメちゃんが笑って見ていた。

「鎌倉は来年にするから、その前に奈良へ行きたい」と義母。
それが、倒れる直前だった。
心臓が悲鳴をあげていて、ペースメーカー入れると連絡があって
すぐにヨメちゃんが九州へ帰っていった。

ペースメーカー入れるには、何より体力回復だと医師。
入院と同時に腹水が溜まり始め。
体力回復とは逆に、病状が急速に悪化し始める。

腹水が内蔵全体に広がり、片肺呼吸。
病巣が分からない。
腹水を1リットル抜き、あらゆる検査をしてやっと発見。

膵臓に悪い塊。
悪い塊が内蔵全体に転移。
ペースメーカー手術を断念。
開腹も断念。

骨粗鬆症でもあり、最悪、人工呼吸時の骨折の危険があると
医師は苦渋に満ちた顔。
つまり、終末を見ている以外に選択肢がないのだ。
痛み止めの薬を投与する以外に。

それでも鎌倉への執念を、毎晩のように口にする。

2012年11月24日、午後2時、
鎌倉を臨む遥か天海へ旅立つ。



「中村主水」逝く。

2010.02.19 (Fri)

kiji.jpg


ショックやで! ほんま。
「あったり前田のクラッカー」の頃から今日まで、
およそ半世紀に渡って、エラいお世話?になった、愛すべき主水はんが、とうとう逝ってしもた。

「必殺」も終わりや。
「剣客」も次のがあらへん。

ちょっと古いけど「てなもんや三度笠」いうのが、ボクのガキの頃にあったんや。「あったんや」言うても、ボク、あの頃は山の中で暮らしとったさかいに、「てなもんや三度笠」っちゅう番組は観られへんかった。

要するにや、谷間に家があったさかい、電波が届かんかった。そういうこっちゃ。笑うやろ。
で、なんで知っとるか言うと、電波の届く友だちの家で、時々観せてもろてたんや。オモロかったで。番組終わってからも、その友だちと長いこと盛り上がってしもて、その親たちが「はよ帰れ!」みたいな顔しとったけど、空気読めへんかった。

白木みのるとの掛け合いが、メッチャオモロかった。
二人で大笑いするもんやさかい、ますますイライラしたと思うんや、そいつの親は。「もう来んでもええ!」みたいな。
あないなオモロい大衆的なもんから始まったんや。





「あったり前田のクラッカー」も、すぐ買いに行ったがな。
今食ったら、「つまらんもん喰うとったな!」思うけど、あの頃は、チキンラーメンとエエ勝負すると思っとった。


maeda.jpg


ほんまに惜しい人を亡くしてしもたわ。

ところで、「あったり前田のクラッカー」と同じ時期に、いやー、もうちょっと前かも知れへんけど、「ミルクボーロ」言うお菓子を、ようくれたオバはんがおったな。


milkbolo.jpg


まだあるかなーっと思って探したで。あった。あったけど、こんなやったかなー。袋のデザインちゃうような気がする。
どっかのメーカーの「チチボーロ」とかいうのと間違っとるかも知れんな。

容量ももうちょっと大きかったような気がする。
口の中に入れると、シュッと溶けるんや。
夜店でも買ったな。


awaokoshi.jpg

haieito.jpg


ついでに、父親が出稼ぎからの土産にと、これも毎年のようにくれた「大阪名物・粟おこし」と、どこでも売ってる「ハイエイトチョコ」。なんか懐かしい。
どれもこれも、今、口に入れて分かったけど、マズいわ。
つまらんもん買ってしもた。



1.17、呪われた1995年。

2009.01.15 (Thu)

kousoku.jpg

1995年の記憶ほど強烈なことはなかった。
1月17日午前5時46分。
正月気分も抜け切らないその日に発生した未曾有の大災害、阪神・淡路大震災。3月20日の地下鉄サリン事件とオウム真理教の一連の事件。全日空ハイジャック事件と、ソウルのデーパート崩壊で死者512人。

いつか読んだベストセラー「ノストラダムスの大予言」。あのインチキ予言が現実味を帯びてきたと思ったほどだ。
その頃私は、広島の福山という地方で仕事をしていた。長年勤めてきた大阪のプロダクションを退社して、そこに移り住み、2年後のことであった。

寝付きのいい私でも、それが地震であることに気づいた。朝、まだ明け切らない薄暗い部屋の中で。
部屋が僅かに何往復かした。と同時に、コトッと何かが落ちる音が聞こえた。それは、いつもは本棚の上に乗せてあったティッシュペーパーの箱であった。

震度3ほどであっただろうか。たかが震度3とはいえ、軽口を叩けるほど気丈でもないし、地震の揺れに慣れるなどということはない。震度1であろうが、3であろうが、同じ量の恐怖を感じるものだ。

その日の朝、いつも通りに起きた。未明に揺れたことさえ忘れていた。朝食の準備をしている菜緒を横目に、テレビのスイッチを入れる。どこかで起こったらしい大災害のニュースが目に飛び込んだ。それでも暫くは、傍観者のままであった。菜緒もサラダを盛りつけながら、ニュースを食い入るように観る。

高速道路が飴のように捩れて横倒しになっている。上空からの映像は、あちこちから上がる黒煙を映し出していた。要領の得ない報道が、ヘリのプロペラ音に遮られて、何を伝えているのか聞き取れなかった。

カリフォルニアかどこかの町が、また地震にやられているのか? それにしても凄まじい光景だ!と、私はその時まで、まさかこれが日本で起こっているなど、夢にも思わなかった。ところが、上空の映像が徐々にズームアップされていく絵は、まぎれもなく日本のそれであった。
「今朝、揺れてた・・・あれがそう?」
菜箸を持った菜緒の顔が引きつっていた。夢ではなかったのだ。

よほどのことがない限りつけることがないテレビを、事務所に着くなりスイッチを入れる。どの局を回しても、地震の報道一色であった。
仕事も身が入らない。友人たちの安否が気になって、住所録を開いて端から電話しまくった。まったくつながらない。伊丹で暮らす姉の家にもつながらない。勤めていた大阪の会社にも、同じチームで仕事していた友人たち、すべてに電話した、が・・・。

神戸の上空は、真っ黒な煙に覆われている。ガメラが町を襲う、あの映画のように、マッチ箱をペシャンと潰した町並みが。その前で、ただ呆然と立ち尽くす人影が。どこかのグランドに『SOS』の大文字が。グニャグニャに拉げたレールと脱線した電車が。横倒しになった高速道路の切れ端に引っかかったバスが・・・。

ガレキに埋まってしまった道。空襲の焼け野原のような光景。
無惨であった。地獄であった。

数週間後、私は自分の目で現地を確かめることにした。ちょうどその頃、携帯電話拡販のための企画をしていて、取材をかねてはどうかと、下心がなかったとは言えないが、ともかく、友人たちの住む場所にチェックを入れた地図帳と、ノートとカメラをリュックに入れた。レザーコートを羽織り、普段は履かないスニーカーに、マスクとサングラスを入れて。

姫路から鈍行に乗り換え、行けるところまで行こうと思った。明石を過ぎた辺りからは、駅舎が疎らになっていた。長田周辺は空襲後みたいに真っ黒に焼けて、粉塵さえなければ瀬戸内海まで見通せるのではないかと思ったほどだった。

鉄道は神戸が終点になっていた。大阪方面に行くには、西宮あたりまで歩かなければならない。鉄道沿いの道は塞がれていて、歩けるみちはその南側一本である。元あった商店街には、マスクやヘルメットを売っている人がいた。商店街も無惨だ。その両側にあった民家も店も押しつぶされ、高層ビルは傾き(根元から倒れているビルもあった)、きな臭い臭いが漂う。粉塵が遥か上空まで達して、太陽が朧に霞む。

傾いたビルを見ながら歩く。上から何が落ちてくるか、分からないからだ。ただ、傾いたビルを見ていると、船酔いしたような気分になってくる。しかし、上ばかり見ていると、捩れ、捲れ上がったアスファルトにつまずく。

三宮辺りで、以前お世話になった画廊を訪ねようと探したが、通りがガレキに塞がれて入れない。異人館街の知人を訪ねるために、北へ渡る道を探したが、鉄道そのものが潰れ、倒壊したビル群に塞がれて横断する道ひとつなかった。

体験した者にしか分からない、この恐怖。そして悲愴。とても・・・、仮に客観的に思っても、語ることのできない地獄。取材を兼ねてなどと用意してきたカメラもノートも、結局、最後までリュックから出すことはなかった。そんなことを考えていた自分が恥ずかしかった。

延々と東へ向かって歩いた。御影に友人がいる。北へ渡れる場所が数カ所あった。地図を広げてアバウトに見当をつけ、線路を横断した。キョロキョロしてところに、ちょうど出てきた友人Aが私を見つけ、抱きつかんばかりに駆け寄ってきた。目が赤い。一階に寝ていた彼女の祖母が、押しつぶされた家の下敷きになって亡くなったのだという。普段、彼女は亡くなった祖母と同じ部屋に寝るのが習慣で、その日は、たまたま大阪の彼のところに行っていた。だから助かったのだ。

大阪時代に直属の部下であったBは西宮に住んでいる。Bの安否を彼女に聞いた。「大丈夫、生きていますよ、彼は」とAは言った。Bのアパートは45度傾き、窓から脱出。九死に一生を得たという。その後Bは姉と合流して知人宅へ避難したのだった。

「元気村」でボランティアがやっていたカレーを食べ、東へ向かった。武庫之荘には、画家でもある中国の友人がいた。だが、心配した通り不在であった。その住宅は古いせいか、例に漏れず半壊状態であった。ところが運良く彼は、中国の旧正月で帰国していたらしかった。

伊丹に住む友人カメラマンも、どうやら無事であった。しかし、そのカメラマンの同僚は悲惨であった。その人の祖父母は、倒壊した家屋の下敷きになり、更にその家に火が移り二人とも焼死したのだという。

とにもかくにも、私の友人知人は全員無事であった。そのことは不幸中の幸いと言えるだろう。
今は、あの未曾有の大震災がなかったかのように、町は復興している。しかし私は思う。地震の巣の上にある日本列島。阪神・淡路大震災はたまたま起こったのではない。やがて、必ずあるだろう「南海」を、私は思う。

”鉄腕”稲尾和久氏逝く。

2007.11.14 (Wed)

「神様、仏様、稲尾様」と呼ばれた元西鉄ライオンズの稲尾和久氏が急逝した。’58年の対巨人線日本シリーズで、3連敗した西鉄は、その後、稲尾投手の4連投4連勝によって、球史にその名を残した。
慎んでここに、お悔み申し上げます。


「ああ栄光の西鉄ライオンズ」

昭和33年、劇的な3連敗4連勝で巨人を撃破し、西鉄ライオンズは日本シリーズを3連覇した。東京の巨人を完膚なきまでに叩きつぶした西鉄の若き獅子たちの活躍に、その頃の少年たちは、溜飲を下げたものだった。

稲尾、豊田、中西、高倉、関口…。そして、少年たちにとっては少しオジサンだった天才・大下弘。(オリックスの監督であった、故・仰木選手は目立たない二塁手で、4連勝目のウイニングボールとなったセカンドフライをキャッチしたとある)それらキラ星のようなスターのなかでも、やはり稲尾和久の存在は野球を始めて間もない少年の心を魅了した。

今はオリックスに吸収されてしまった近鉄バッファローズは、その当時、近鉄パールズといって、パリーグの万年最下位。シュアーなバッターである児玉以外にスター選手はいなかったという。
セリーグでは阪神、パリーグでは西鉄。必然的に、パリーグの在阪球団であった南海ホークスは、西鉄のライバルということで、セリーグの巨人阪神のような関係となっていた。

ところで、当時のボクらは野球帽を愛用していた。各々が好きな球団のマークの入った帽子を被っていたが、関西ではやはり阪神や南海の帽子が多かった。もちろん、巨人のYとGの帽子もけっこういたのだが、西鉄ファンであったボクの友人には、NとLのイニシャルを組み合わせた帽子が必要となったのである。

しかし、これが難題であった。いまと違って、関西の球団ではない西鉄の帽子はなかなか手に入らなかったらしい。翌年の春、新しい帽子を買い換えるシーズンとなって、いつもの洋品店兼雑貨屋に足を運んだが見つからなかった。

今度いつ入るのかと聞いても、はっきりとした答えは返ってこない。こういうとき、小学生というのは途方に暮れるものである。だからといって、好きでもない球団のものを被ることは、子供ながらに潔しとしないのであった。分かりやすい話しだ。

だが、そこに助け船があらわれた。先客であった近所の上級生がポーンと目の前に西鉄の帽子を投げてよこしてくれたのだという。彼は、阪神のファンでも阪急でも南海でも近鉄でもなくて、大毎オリオンズのファンであったらしい。

現ロッテの前身で、もう少し前は、毎日オリオンズという球団であった。パリーグファンだったが、なぜか在阪球団は好きではなかったらしい。大毎の帽子がなかったので仕方なくたったひとつあった西鉄の帽子を買っていたのだ。

その上級生が好きだったという大毎オリオンズは、昭和35年に2度目のリーグ優勝を果たした。榎本・葛城・山内・田宮らが揃った彼の自慢のミサイル打線は、鉄腕・稲尾ら西鉄の投手陣を攻略し、昭和34年に南海に奪われていた西鉄の覇権奪回の夢をこなごなに打ち砕いた。しかし、その頃はもう三原監督もいなかったし、西鉄の黄金時代と少年たちの草野球時代は過ぎさろうとしていたのである。


(稲尾氏の経歴)

 1937年大分県生まれ。投手。右投右打。背番号24。別府緑ヶ丘高校から1956年西鉄ライオンズに入団。
 1年目からいきなり21勝6敗、防御率1.06で最優秀防御率のタイトルを獲得。新人王にも選ばれた。西鉄もリーグ優勝を果たし、日本シリーズも制した。
 2年目の1957年には35勝6敗、防御率1.37という完璧な成績で最多勝と最優秀防御率のタイトルを手にした。チームも日本シリーズ2連覇。
 1958年にも33勝、防御率1.42で2年連続最多勝・最優秀防御率のタイトルに加えて334奪三振で奪三振王にも輝いた。チームも日本シリーズ3連覇を果たしたが、稲尾はこのシリーズでチームが3連敗したあと、4連投4連勝という奇跡的な快投を演じた。
 1961年には78試合に登板し、スタルヒンが作った日本記録と並ぶシーズン42勝を挙げて、防御率1.69、353奪三振で最多勝・最優秀防御率・奪三振王に輝いた。
 1963年にも28勝16敗、226奪三振で最多勝と奪三振王に輝いてチームをリーグ優勝に導いている。
 しかし、過酷な登板日程により、肩を酷使したことで実働年数は14年と短く、1969年に現役引退。 
 「鉄腕」と呼ばれるタフネスぶりで、日本シリーズ4連投4連勝に象徴されるように、文句も言わずに投げ続けた。
 145キロを超えるストレートと鋭いカーブなどで、勝負球から逆算して配球を組み立てていく頭脳的なピッチングとコントロールで打者を翻弄した。

 通算成績:276勝(歴代8位)137敗、防御率1.98(歴代3位)。2574奪三振(歴代7位)。最多勝4回(1957・1958・1961・1963)最優秀防御率5回(1956~1958・1961・1966)最多奪三振3回(1958・1961・1963)シーズン最多勝42勝(歴代1位)シーズン78試合登板(歴代1位)シーズン353奪三振(歴代2位)

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鬼門と叔父。

2007.03.26 (Mon)

度々“下”の話しで恐縮だが、先日、たまたま友人としていた「鬼門」の話しで、ひとつ想い出したことがある。
そもそも「鬼門」とは、風水でいう最も日本的な発想であり、日本人には「鬼門信仰」というべきものが根強くある。たとえば、『鬼門に便所を作ると、主人が死病に取り憑かれる』とか、『そこに玄関がある家は、不幸が訪れる』といったものである。
方角で言えば北東であり、十二支の「丑」と「寅」に当たる。だからその方角に便所や玄関、或いはキッチンなどがあれば「不吉」であるとされる。反対に、南西の方角は「裏鬼門」と呼ばれ、昔話しの「桃太郎」の鬼退治に登場してくる「サル(申)」「トリ(酉)」「イヌ(戌)」がそれである。つまり、不吉な鬼を退治するには「裏鬼門」に当たる3者が、どうしても必要だった訳だ。

「鬼門」の話しはさておき、我が家では、その「鬼門」に当たる位置に便所があった。<便所の横の柿の木。(06.12.4投稿)>でも記したように、その便所の外側に、柿の木の他に南天と万年青(おもと)が植えてあった。そのことからしても、風水に習って邪気を祓い、「気」の流れをよくするのが目的だったのだと推測できる。

もちろん田舎である上に、昔は下水の完備はなく、大きな“クソ溜め”があるだけの汲取り式であった。この便所にまつわる話しは尽きない、「鬼門」以上に忌わしい場所であった(らしい)。

何故「鬼門」以上に忌わしい場所であったか。それは、不覚にもその“クソ溜め”に落ちたという悲惨な事件があったからである。もちろんボクではない。

父が小学校の頃、父の下にヨチヨチ歩きの末弟(ボクの叔父)がいた。その叔父は、実に温厚で優しく、真面目で男らしい人であった。祖父が他界した、ボクが5年生の時まで同居していて、実の兄同然に慕っていた。
その叔父が小さい頃、あろうことか、「鬼門」である暗闇で不覚をとったのだという。

当時の我が家の便所(というより厠と言った方が、イメージ的にピッタリだ)は、木製の床に長方形の穴をストンと切り込んだだけの、実にシンプルなものであった。床は歩く度にギシギシと音をたて、踏み外す前に抜け落ちてしまうのではないかと思われるくらい恐怖感がつきまとった。

だから、暗い夜や寝ぼけたりして一歩間違えば、暗い“クソ溜め”の奈落の底へ落ちてしまう危険性があった。それだけではない。汲取りが終わった後の柔らかい時など、臭うだけでなく、“大”をしようものなら、しっかり“オツリ”を頂かなくてはならないのだ。
そういう場合のコツは心得ていた。“大”のものが体外へ放出された瞬間、ヒョイッと腰を浮かせればいいのである。

だが、いくら危ない便所といっても、そうそう間違っても落ちたりすることはないし、状況からして油断はしないものだ。
「叔父は不運だった」。そう言うしかない。夥しい糞尿の真っ暗闇に、しかもまっ逆さまに落ちたのであった。
「落ちた」。これほど悲惨なことはない。想像はしたくないが、こういうものに限って想像力が掻き立てられるのも事実だ。

ともあれ、この不運な事件のことを叔父は記憶していない。(これは幸運であったかどうかだが)

父の話しではこうだ。
ヨチヨチ歩きの叔父は、父親(ボクの祖父)に連れられて厠へ入った。中で見ていればよかったのだが、祖父としても、息子に(ひとりでさせる)練習をさせようと考えたのかも知れない。何にしても、息子が中で頑張っていると、誇らしく思っていた矢先に悲鳴が聞こえた。
祖父が中へ入ると、息子はいなかった。そして、暗闇の“クソ溜め”の中で溺れる姿を発見したのである。

厠の中から“クソ溜め”に手は届かない。そこで一旦座敷に戻り、台所の勝手口から裏庭を横切り、厠の汲取り口まで走った。汲取り口のフタを開けると、今にも底無しの沼に吸い込まれそうな叔父がいた。
祖父は、自分がクソ塗れになるのも構わず叔父を引き上げ、すぐさま下の河原へ行き、洗ったのだという。

その日から叔父は、暫く下痢が止まなかったらしい。そして叔父は、その後幸運であったかというと、それも定かではない。

nanten.jpg

天敵・祖父の最期(2)

2007.01.31 (Wed)

「男の癖にメソメソしあがる」
「男の癖に言い訳するな」
「男の癖にしゃんとせんか」
「男の癖に」というのが祖父の口癖であった。それでもボクが言うことをきかないと、「男の癖に・・・」と言ったついでに「キン○マ切ってしまうぞ」と、付け加えた。そう言われるとボクは、何もしゃべれなくなった。

祖父の、「へ」の字に曲がった口元がボクを蔑んでいた。「男って何だ」と、子どもながらに考えた。しかし、考えることと言えば祖父に反抗することばかりであった。反抗的な態度をすれば、ますます祖父はボクを追い詰めてきた。そうしてボクは、自分ひとりの世界へ没入していった。ひとりでいれば泣くこともないし、言い訳をする相手がいないと分かったからである。

祖父はことの外、自分勝手で頑固であった。それも半端なものではなかった。昔の田舎は男尊女卑の習慣が根強く、家長に逆らうことは絶対許されなかった。長男は例外なく家を相続し、家業を継がなくてはならない、そういったことが根底にあったのだろう、自分の意に反することがあると徹底的にそれを正し、先祖の教えを第一として、死ぬまで全うした。ボクが5年生の時であった。

祖父が倒れる数週間前、大阪の親戚の結婚式に列席した。その披露宴で、生前の思い出とばかりに大酒を呑んだという。もともと祖父は滅法酒が強く、我が家の台所の板間の下にドブロクを隠して、のべつまくなしに呑んでいた。朝、起きがけにまず一杯。その勢いで野良へ出て、昼めしついでに一杯。夕食が終わると、また板間にあぐらをかいて、アルミ杓で2杯3杯と煽った。それでも一切表情を変えなかった。

そんなある日のことである。
「父さん、じいちゃんが便所で寝てる」と叫びながら、父とボクのいる畑へ転がり込んだ。
「何! 便所で?」
父は手にしていた農具を放り出して家に駆け戻った。
祖父は便所で大の字になり、大鼾をかいて寝ていた。呼びかけても反応がなかった。それから2日間大鼾をかき続け、一度たりとも目を覚ますことなく逝ってしまった。

祖父の遺品の中から結婚式の時の写真が出てきた。列席者全員で撮ったものと、親戚周辺で撮ったと思われる写真が数枚あった。どの写真も、我が家では殆ど見せることのなかった、機嫌のいい表情であった。
ひな壇の2列目の端に立っていた祖父の目はカメラの方を向いていたが、顔の表は、どちらかと言えば外寄りの「仏顔」になって写っていた。

ボクはかつて、その写真の祖父の表情に似たあるものを憶い出した。父がストックしていた円山応挙の画集の中に、それはあった。掛け軸を印刷したもので、何という題であったかは思い出せないが、生前に見せていた鬼瓦のような祖父の顔と似ても似つかない表情をして、静かに佇んでいた。

何にしても徹底的にボクを監視し、根性が曲がるほどに追い詰め、圧制を欲しいままにしてきた祖父の幕切れは、実に呆気無いものであった。

hotokesan.jpg

天敵・祖父の最期(1)

2007.01.30 (Tue)

キンコン、・・・キンコンカーーーン・・・・。
どこかで水の滴る音が聞こえた。
雨樋を伝い流れる、チョロチョロという音が深い洞窟の奥で聞こえる。そして、その音が空洞の中で反響した。真っ白な靄がゆっくりと陽の光に吸い込まれながら上っていく。足下に僅かな空間が生れ、その下に真っ青な草原が広がっていた。

耳の奥で男の声がした。男の声は嗄れていた。そして、その声は次第に大きく頭上から降ってきた。
「漁。お前、男のクセに根性が足らんの」
「誰?」
「ワシじゃ。ワシを忘れたんかえ」
「えっ、誰?・・・じいちゃん?」
「お前は相変わらず情けないヤツじゃの」
声の主は、3年前亡くなった祖父であった。
あれだけ憎んでいた祖父が、まだ見張っているのかとボクは思った。
「・・・・・・・」
「漁。男のクセにちゃんとせんか。女の腐ったみたいに諦めるんか」
「・・・・・・・」
ボクは慌てて辺りを窺った。しかし、白い靄が視界を遮り、何も見えなかった。
「はよ目を覚まさんか、漁」
祖父の怒鳴り声に、一瞬頭が割れそうになった。
眼前に真っ白い雪原が広がっていた。
「じいちゃん」と、ボクは声を出して呼んだ。祖父の声は、もう聞こえなかった。雪原の上の霞んだ雪山が遠くに見え、青空が覆っていた。

新しいスキーを買ってもらい、初めて雪山へ入った中1の冬であった。
裏山の頂上までスキー板を担いで上がり、そこから一気に滑り下りようとして、松の木の枝を引っ掛け転倒したのだった。幸いにもケガはしなかったが、松の木のあったところから30メートルほど滑落し、暫く気を失っていたらしい。スキー板は既に両足から消え、遥か畑の下の谷の手前で突き刺さっていた。

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ペコちゃん、ポコちゃんの「夢」とは。

2007.01.15 (Mon)

「漁ちゃん、あそびましょう」と、隣の同級生のY子ちゃんが、よく遊びに来ていた。来ていたが、ボクはいつも逃げていた。
Y子ちゃんは女の子らしくて可愛い子であった。しかし、どういう訳がボクは、そういうのが苦手であった。「漁ちゃん」と呼ばれると、身体中が痒くなった。何故かと言うと、ダルタマばばあ(“ダルタマの呪い”で登場)に、女の子と遊んだだけで「チン○ンが落ちる」などと笑われたことがあったからである。

「漁ちゃん、いるの?」
Y子ちゃんは縁側に腰掛けたまま、ボクを待った。ボクが出ていかなくても、ひとりで遊んでいた。オオバコが生えている辺りでしゃがんでいたことは憶えているが、何をして遊んでいたが、ボクは知らない。
ボクはそっと裏口から脱出した。裏庭を通って、地下水の出る池周辺か、田んぼを横切って、谷川で遊ぶかしていたのだ。だから、Y子ちゃんがいつ帰ったのか知らない。

Y子ちゃんは、いつもペコちゃんのイラスト入りの「ミルキー」の箱を手にしていた。大きな箱に赤い紐のようなものがついていて、それを肘に掛けてやってきた。Y子ちゃんはペコちゃんのような赤いリボンで、髪を結んでいた。

後年知ったが、ペコちゃんは1950年、ポコちゃんは1952年に生まれて、夢の国というところからやってきたという。(ボクより年上だ)
ペコちゃんは弟のポコちゃんより年上なのに、永遠の6才。ポコちゃんは、何故か永遠の7才だという。ここが今ひとつ理解できないのだ。ちなみにペコちゃんの名の由来は、牛の「ベコ」からとったらしい。

特に不二家のファンだったというのではないが、キャンディや洋菓子には少なからず関わっていたことは間違いないし、今やなくてはならない企業であった筈である。しかも、あの当時はY子ちゃんに限らず、日本中の子どもたちの夢であった。にも関わらず、「雪印」に次ぐこの不祥事は何たる所業だろう。
「不二家よ、お前もか」と言いたい。

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