昔遊びと悪ガキ

キラキラとした別世界。・・・今考えると、これほど外の世界が魅力的に感じた時代はなかった。

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ほっぺたが落ちる「ドングリクッキー」

2015.10.22 (Thu)

7年振りに、ドングリのソフトクッキーを作りました。

今回は先日行った鶴見緑地公園で拾ったドングリ。

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見た目ははっきり言って悪いんですが、

素朴でとても美味しくできました。

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一番の手間が皮を剥くことと、灰汁抜きです。

写真のように皮が柔らかくなるまで煮ます。

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量にもよりますが、水を足しながら1時間半ほどで

皮が剥がれやすくなります。

皮はペンチなどで挟んで割ると、比較的剥きやすいです。

皮を剥いてからも、何度も水を変えながら灰汁を取ります。

すると、こんな感じになります。

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中の薄皮も取ります。

1時間ほど水にさらし、冷ましてから裏ごしします。

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次に、裏ごししたドングリ3に対して薄力粉を2の

割合で混ぜます。それがこれ↓

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ここからが最終段階です。

薄力粉を混ぜたドングリに、ベーキングパウダー、牛乳、

卵、砂糖、バターを適量とバニラエッセンス、

更に黒ゴマをたっぷり混ぜます。

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仕上げは、フライパンに油を引き、

中火で6〜7分焼きます。

D-009

見た目、メチャクチャ悪い。

でも、栃の実ほど苦みはないけど、香ばしい。
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どうする、最後の晩餐。

2013.10.02 (Wed)

少し前に、日本の食文化を伝えるあるTV番組を観ていてヨメが言った。「明日、地球がなくなるとしたら、最後に何が食べたい?」最後の晩餐というやつである。

今まで何度も、このようなことを聞かれたけど、最後となると何を食べたら満足するのか、正直迷う。せめて2、3週間は欲しいもの。食べたいものは山ほどあるのだ。で、ボクは悩んだ末にこう言った。「そやな、小さい頃に食べたカレーかな。それと、デザートにオフクロのぼた餅やな」。

ボクはグルメでもないし、食道楽でもない。親には悪いが、どちらかと言えば粗食で育ったようなものだから、食に対する執念がありそうに思われがち。しかし、以外と淡白なのだ。

ぼた餅はオフクロが健在な限り食べられる。余談ではあるが、ボクの家族の中で一番長生きしそうなのがオフクロだと思える。オフクロは45年前にオヤジと再婚して、子どももいないし、ずっと生まれ育った土地で、のんびりと暮らしてきたから殆どストレスを感じていないのだと思う。

小さい頃の事故で足を悪くしているし、年も89になるというのに、あの元気さには驚くべきものがある。100才は軽く行きそうだ。ともかくボクが老齢の域に達しても、ぼた餅は食べられそうな気がする。しかし、あの頃のカレーとなると、これは不可能に近いものがある。何しろ45年前のことだし、味覚も変わってしまっているのだから。

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いつもカレーのことばかり追っていたわけではない。が、食堂街などを歩くと、どうしても昔のカレーのことを思い出さずにはいられない。先日のことだったか、ずっと気になっていた店に行った。北堀江3丁目の和光寺のすぐ隣り。

蔦に覆われ、その気で探さないと見過ごしてしまいそうな、小さな軽食喫茶の店である。店の上に「堀江茶房」という渋い色合いの看板が上がっている。軒下にも「印度カレー」のプレートがぶら下がっていた。

その店の、ふたつ通りを隔てた南堀江に事務所を構えて、ほぼ15年になるが、その間、幾度となく前を通りながら一度も入らなかった。ただ、「印度カレー」の古いプレートは、通る度に気にはなってはいた。

ヨメとふたりで街を散歩し、気になる店をチェックして書き留め、一件づつ制覇する。そんな習慣が、いつからか続けられている。新しくできた大型チェーン店。旨いと評判の店。高級老舗。行列のできる店。でも、そんな店は実際、関係ない。案外期待外れが多いものだ。

大阪には、まだまだ旨い店がたくさんある。それは、一等地でも人通りの多い商店街でもない、1本奥まった細い路地や一等地から遠く離れたところに、存外生き残っている。

ヨメと古めかしいドアを開けて入った。小さなテーブルが4脚。年期がはいって黒ずんだ調度と焼き物や骨董が、ところ狭しと置かれていた。早速、一番気になっていた「印度カレー」と注文。 昼飯時を外して入ったので、店内はふたりだけである。

「印度カレー」ができあがる前にスープが出た。旨い。カレーにスープが出る出ないは店によって違うが、スープが旨いか旨くないか、味覚を測る尺度になると言うから、たぶん重要な要素だと思う。それでもボクは、特にカレーにはこだわりがあるから、名物のイタリアンスパゲティをスルーして、敢えて印度カレーにしたわけだ。

ほどなく印度カレーが運ばれてきた。量は少し物足りない気がするが、なるほど、噂通り美味い。美味いが、ボクが期待していた昔の印度カレーの味ではない。仕方がない。最後の晩餐まで気合い入れて探すとするか。



ほっぺたが落ちる…シリーズ第6弾(塩鯖の麹漬け)

2013.05.05 (Sun)

GWの休暇を利用しての帰省。墓参り以外することがない、何もないド田舎ではあるが、つい最近、「生野義挙150年記念祭」があったらしい。生野義挙とは以前、何度か書いたことがあるから、ここで敢えて書かないでおくが、知りたい人はネットで検索すれば、いくらでも知ることができる。

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墓参りする以外することがない。あるのは、余りある緑、緑、緑・・・。だからかどうか、心身ともに掃除されていくのが感覚的に分かるのだ。都会人や故郷に縁のない人にとっては羨ましい限りだとよく言われる。だろうなぁ。せいぜい羨んでくれ、と言いたい。

今日は、その生野義挙や墓参りの話しではない。
久しぶりの「ほっぺたが落ちる」シリーズなので、ちょっと気合いを入れたい。
「ほっぺたが落ちる」と聞けば、さぞかし、どこぞの料亭かオシャレなレストランで食べるそれかと思われそうだが、単なるお袋の田舎料理である。お袋の手料理については、今まで何度か述べているが、今回もまた、実に飾り気のないものだ。

田舎料理だから特別な料理法や食材はない。今と違って流通が不自由であったりで、どうしても野菜や保存食中心になる。ボクが少年の頃もそうであった。チキンラーメンとかカレーライスのような強烈な記憶は別にして、畑や山で採れたものを、いかに美味しく食せるかは、その家庭の伝統技に繋がるものだと思う。過去に書いた「ほっぺたが落ちる」シリーズは、そのほんの一部に過ぎないが。

今回、我が家の食卓にのぼった地味なる料理は、「塩鯖の麹漬け」である。本来の「塩鯖の麹漬け」は、塩辛いものであって、よく酒飲みにはたまらない料理のひとつと言われる。それはそうである。あの頃は山盛りの丼メシを、漬け物だけで何杯も食べていた時代であった。
雪に閉ざされる田舎は、どうしても保存できる料理が中心になりがちであった。だが健康的に問題視された今では、減塩ブームが浸透してきている。

記憶にある昔の味は、塩と唐辛子の辛さであった。が、今は米麹とスルメの甘さに、半分塩抜きした塩鯖を加えるだけで、本来の味が再現できている。たかが麹漬けであるが、これはスゴいの一言である。
作り方は簡単である。

まず、炊きたてのご飯に麹菌を混ぜる。それを適温(人肌くらいの温度)で1週間か10日置くと、醗酵して甘酒のようになる。そこに半分塩抜きしスライスした塩鯖と裂いたスルメ、唐辛子を入れて、更に2週間寝かせる。これで出来上がりである。
塩は鯖に染みたわずかな量だけなので、長くはもたない。それでも冷蔵庫であれば1ヶ月は大丈夫らしい。

塩鯖とスルメは味が異なる。その複雑なコラボレーションが、独特の風味を醸し出す。そして唐辛子である。米麹と唐辛子は、特に相性がいいので、唐辛子の辛みを残しつつも、必要以上に舌を刺激し過ぎないように、麹の甘みが緩和してくれるのである。

ただ、写真を撮れなかったのが残念である。


焼き鳥だ!

2010.09.12 (Sun)

おおお、忘れておった。

この間、旅から帰った時に、いち早く見付けた羽。

これは紛れもなくスズメの羽だ。

スズメの狙いはアゲハチョウの幼虫だけではなかった。

プランターに蒔いた種が何故、芽を出さないのか

それが不思議だった。

種が古いのか、土が悪いのか。


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ある朝、ベランダ中が土だらけであった。

そして、プランターの土の表面にくちばしの跡が無数に。


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今度見付けたら、焼き鳥にしてやる!



ほっぺたが落ちる シリーズ第4弾(地蜂)

2009.05.15 (Fri)

「そら行け、漁!」
という声とともに、父とボクは青空に消えていく白い”点”を追いかけた。
国道を横切り、田んぼの畦道を、両手を広げてバランスをとりながら走る。土手をいくつも越え、雑草をかき分ける。

白い”点”を見失ったらお終い。一からやり直しなのだ。
父の走りは滅法早い。ボクは、その”点”を追いかけるより、父の後ろ姿ばかり追いかけるのに必死になっていた。何度か転んだが、父は振り向きもせず、一点を見つめて走っている。

いつしか薄暗い薮の中へ入っていた。全身汗みどろになり、頭はクモの巣だらけ。泥だらけの手や足。擦り傷に汗が沁みてヒリヒリした。
と、暗い雑木林の中で、父は中腰になって固まっていた。
「シッ、動くな!」

ボクは、父の視線の先を注意深く見た。腐ったケヤキの切り株の上に、濃緑色の葉が重なり、木漏れ日が点々と落ちている。どこからともなく、ウ~ンという羽音は聞こえた。

「父ちゃん、あった?」
「おうや、そこの葉っぱの下や」
父はポケットから、セルロイド製で使い古しの歯ブラシとマッチを、足下に置いた。そして、蜂を刺激しないようにそっと葉っぱを捲った。
「おう、あったあった、ここや!」

ケヤキの根は苔が生えて、落ち葉が重なっている。その隙間から数匹の黒い蜂が出入りしていた。
「こりゃ大きいぞ。漁、この袋かぶっとれ!」
手渡されたのは、タマネギを入れるオレンジのネットであった。それを汗みどろの頭からスッポリかぶって、父のうしろで見ていた。

父はベルトから鎌を抜き、巣を覆っている枝をはらい落とした。落ち葉を静かにかき分けた。ケヤキの根本に親指ほどの大きさの巣穴があり、入り口からチョロチョロと蜂が顔を出す。ただならぬ気配に蜂たちは警戒色を帯び始めた。

父はセルロイドの歯ブラシに火をつけた。白い煙を上げて、地蜂の巣穴へ吸い込まれた。
「よっしゃ、これでええ!」

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地蜂とはクロスズメバチのことで、地面の中に巣を作るところから名付けられたのだろう。冒頭の白い”点”とは、巣に帰る蜂の胴(細いところ)につける目印のことで、軽くて白い小包ひものようなものを使っていた。セルロイド製の歯ブラシは、瞬間的に蜂を眠らせるための小道具であって、決して死なせるためではない。蜂が暫く眠っている間に土を掘り起こして、巣をごっそり頂くのだ。

掘り起こした巣は、洗面器に二杯分はあった。それを、ボクがかぶっていたネットに入れた。まるで戦利品を手にした武者のように。

栄養源の少なかったボクの小さい頃、地蜂の炊き込みご飯やデンデンムシ、タニシ、イナゴ、それからカミキリムシの幼虫を食べていたという話しは過去にしたが、この地蜂の炊き込みご飯は絶品であった。他に、佃煮や素揚げにすることもあったが、やはり炊き込みご飯である。

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作り方は簡単である。巣の底を火で炙り、底をトントンと叩くと幼虫が落ちてくる。幼虫をフライパンで炒めて、砂糖、酒、醤油で味付け。あらかじめ出汁を入れた釜ごはんの中に入れて、普通に炊くだけである。

芳ばしい香りの中に、甘さが渾然一体となる。まず五つ星に勝るとも劣らない味である。
後年その話しをヨメの菜緒にしたことがる。菜緒は顔を歪めて吐くジェスチャーをしたのだが、まあ、食べず嫌いというべきか、もしあの美味を知らないで人生を終わるとしたら、いかにも不幸だと言えなくもないが。

里の風景。

2009.05.11 (Mon)

かつて我が家の畑の端にビワの大木があった。35年前の引っ越しの時に、その木は切り倒されてもう影も形もないが、祖父の時代に植えられ、引っ越し当時は樹齢50年を超えていたという。幹の太さは子どもが一抱えできるくらいあって、10m以上の高さがあったと思う。

毎年成るがままにしていて、果肉が小さく、お店で買うそれよりは半分ほどの大きさしかなかったが、香りも糖度も濃厚であった。毎年、梅雨時に花をつけ秋口にはたわわに実をつけていた。

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春来川に沿って200坪以上の畑があった。畑の周囲、つまり春来川の川岸には、ビワの大木を挟むようにビックリグミの樹列と、数種類の柿の木、そして梅や桃の木があり、川岸には石垣イチゴの実が、この時期真っ赤に染めていた。
5月から6月のイチゴのシーズンを過ぎて、梅雨時から台風が到来し始める頃、ビックリグミの赤い実が、それこそ畑を鮮やかに染めた。

ちょうちんグミ(グーズベリーのこと)もこの頃実る。プチッと弾けて中から滲み出る果汁の酸っぱさといったら、想像しただけでも唾液腺全開である。そのまま食べることはあまりない。主に氷砂糖と焼酎に漬けて果実酒にするのだ。
夏が始まると、畑には色とりどりの野菜や果物が、次々と実を結ぶ。秋の実りの最初に、ビワの黄色い実が結び、そして間もなく、一番早い花ゴショウ(柿)が食べ頃を迎える。

我が家の北の便所のすぐ外に、柿の大木があった。その柿も祖父の時代から継木して育てたものだった。根元から大きくV字型に分かれていて、一方は花ゴショウ、もう一方は花ゴショウが終わる頃にようやく食べ頃を迎えるコブ柿であった。

コブ柿は平たい花ゴショウと違い、やや尖った形をしている。花ゴショウは熟すとすぐに落ちてしまうが、コブ柿はいつまでも固くて甘く、正月を過ぎても実をつけていた。

コブ柿の枝は、ちょうど二階の軒先あたりから水平に伸びていて、縄を結びつけてターザンごっこやブランコなどで遊ぶには、打ってつけの枝振りであった。猿のように高い枝までよじ上り、飽きるまで柿を食べる。そしてターザンごっこにふける。あるいは柿に食らいつきながらブランコ遊びをする、そんな日常であった。

話は脱線するが、ビワの実で思い出したことがある。後年、大阪のプロダクションに勤めていたある年、仲間数人と京都の小浜へ釣り旅行した。会社にそのまま泊まり込み、未明にクルマで出発した。仕事でヘトヘトに疲れていたが、遊びとなれば別人になれる若さがあった。白々と夜が明ける頃、若狭本郷の青戸大橋を渡っていた。犬見崎を後に大島半島の東を北上、金崎を北へ回ったところでクルマを降りた。

濃紺の空と鏡のように光る眩しい海。抜けるような水の蒼さ。複雑に入り組んだ岩にしっかりと根を下ろした海藻、そしてそれに戯れる魚たちが疲れを忘れさせた。
早速、釣りの準備に取りかかった。しかし、それより先に仲間たちは、宴会の準備にかかっていた。バーベキューのセットを開けて火を熾し、クーラーボックスから酒を出してから、やっと釣り竿に手をかける。釣りはプロに任せて、どうやら宴会が主目的であったらしい。

数百メートル先には、筏の列が光る波間に浮かんでいた。狙いの真鯛でもヒットしたのだろう、時折、歓声が潮騒に共鳴した。
コンディションは抜群といっていい(見える魚は釣れないともいうけど)。これだけ水が美しくて、暖かくて、釣り糸を入れた瞬間、イレ食いだと誰もが信じて疑わなかった。仕掛けを付ける手がもどかしいくらいに震える。バーベキューの準備は完璧だ。後は太公望の出現を待つのみであった。

だが、一向に手応えがない。流行る気持ちを抑えてウキの位置を変える。イソメをシラサに変えた。
ウキが沈まない。複雑な岩礁に針を取られて地球を釣る。大物かと思えばワカメであったりと、イライラがつのるばかり。
やっとヒットしたと思えば、掌サイズの”骨皮筋エ門”である。
筏の連中が恨めしい。

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酔っぱらいたちは酒を片手に、のんびりと釣り糸を垂れる。”骨皮筋エ門”を網に乗せて、チビチビとやっている。
ボクはその頃から催し始めていた。我慢の限界が近づき、海岸沿いの雑木林へ飛び込んだ。何を考えていたのかよく憶えていない。それはたぶん、アングラーからパラダイス指向へのレボリューションだったかも知れない。ふと見上げると眼上に、野生のビワがたわわに実をつけていた。ボクは次の瞬間、その木によじ上っていた。

果肉は思いのほか薄いが、香りといい甘さといい抜群であった。行きがけの駄賃とばかりに、両手に抱えて仲間のもとへ戻った。実は冷やした方が美味しいと知っていたので、空き缶だらけのクーラーボックスに放り込んだ。ところが、誰もそのビワに手をつけることはなかった。

雑煮の不思議

2009.01.06 (Tue)

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お雑煮も飽きた。小さい頃からあまり馴染めなかったオセチも、この頃になると、夕食のオカズの隅にちょこっと乗せてあって、あ~ああ、まだあったのか?と、うんざり気味。
年末年始のグーたらな食っちゃ寝生活で、少々、腹が迫り出してベルトの穴ひとつズラす。(なんと情けなや!)

お雑煮で思い出したことがある。
あれは、ボクが結婚したばかりのある正月のことであった。お雑煮は地方によって味付けも具も違う。違って当然だ。ちなみにボクが生まれた山陰地方は、醤油ベースの薄味で、出汁はイリコと昆布、具は・・・、あまり憶えていないが、たぶん鶏肉、大根、ニンジン、白菜、干し椎茸、麩であったと思う。

九州博多出身ボクの妻は、母親の故郷の長崎風仕立てで、あご(トビウオの干物)から出汁をとって、やはり醤油ベースの薄味。具は、シンプルなボクの田舎と違い、ブリ、貝、鶏、里芋、白菜、大根、ニンジンなど具沢山だと聞く。

それは、まあよい。
ところが、習慣というのは恐ろしいもので、ボクの田舎のそれは、九州育ちの妻から見ると、信じられないものらしい。
ともかく二人暮らしが始まったばかりのある正月、妻は既に身重な身体になっていて、ボクが代わりにお雑煮の準備をすることになった。当然、ボクの田舎の山陰風のやり方でするわけだ。

イリコと昆布で出汁をとり、醤油とみりん少々、妻好みの薄味にと。あらかじめ年末に用意していたオセチを小分けして膳に乗せる。
まずはお屠蘇で・・・、と。
「漁、なんでご飯があるの?」
「えっ?」

「お雑煮あるのに、ご飯は要らんでしょう?」
「ご飯? 要るやろ、普通は」
「要らんでしょう? お餅があるんだから。お雑煮にご飯はおかしい。絶対に」
「なんで? ボクの田舎では、普通そうするんやけど・・・」
「だって、ご飯もお餅も炭水化物でしょう。主食ふたつ、必要ないと思うけど」

そう言えばそうであった。ご飯もお餅も同じ稲から作られたもので、ひとつ膳に上れば、どっちが主食なのか分からない。菜緒の言う通りだ。
「漁の田舎は、お雑煮とご飯を、どう食べるの? おかしくない?」
「でも、昔からそうだったし、食事には必ずご飯が付き物で、どんな料理でもメインがご飯だったんやけど」

菜緒は決して怒っているのではなかった。しかし、昔からの習慣といえど、おかしいことは徹底的に追及するクセがあった。ただそれがけであったが、納得いかないとムキになった。
その当時、ボクが作ったカレーライスの時もそうであった。

小さい時に食べていたカレーライスの中に、肉が入ることは殆どなかった。それが普通であった。たまに入っていた(主に鶏肉)とすれば、盆などの特別な時であった。だから、カレーライスの中には、肉は必要ないものと初めから思っていた。その時も菜緒は、口をとんがらかして、ボクに食ってかかったものだ。

いつだったか、ボクの実家で正月を迎えた時も、菜緒は目を丸くしていた。老夫婦二人暮らしの小さなテーブルに、ところ狭しと置かれた正月料理の中に、大きな鉢にお雑煮、そして、その隣に豆入りの炊き込みご飯が、ちょこんとあった。

両親がうたた寝を始めた頃、菜緒はボクに言った。
「漁の言った通りやね。お雑煮とご飯。あれ、何で?」と。
何でかボクは応えられなかった。
たぶんそれは、お餅はあくまでもオヤツみたいなものであって、オヤツが主食になることは決してない。そう思った。

余談だが、菜緒の父親はパン食を好まない。仮に朝食にパンが出たとしても、必ずご飯で口直しするのだという。(それとこれと、どう違うのや?)

精力増強・滋養強壮のむかし

2008.12.18 (Thu)

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妹を出産してすぐに野良仕事に出なければならなかった母は、間もなく心臓を患ってしまった。出産してすぐに働くなど、今では考えられないことだが、昔は、それが普通であったらしい。

「子どもを産んだくらいで、寝てばかりいるな」とか、「病気でもないのに・・・」と、怠け者扱いしていた祖父は、人の意見をまったく受け入れない頑固で横暴で、その上、圧政を欲しいままにしていた。理不尽の概念を持たなかったのだろう。

ボクが物心つき始めた頃は、既に母は寝起きを繰り返すほど病弱になり、あれよあれよという間に進行していった。町医者から手渡されていた薬は、常に手放せなくなっていて、残り少なくなったというだけで、恐怖に怯えた。

そんな神経質な性格だから、薬に関するあらゆる情報は、敏感になっていた。「何々はどこに効く」とか「これをこうすれば体に良い」などと耳にすれば、すぐに実行していた。

ドクダミ、ゲンノショウコ、センブリのような薬草の他に、マムシ、スズメバチ、更にはモグラの薫製と、わけの分からないものまであった。
センブリはなかなか手に入らなかったが、同時に、ドクダミやゲンノショウコは知る人ぞ知る漢方薬で、あちこちに自生していて、すぐに手に入った。

梅雨時から夏場にかけて、一気に成長するそれを、農作業の合間に採り、天日に干して煎じて飲むのである。”ドクダミ茶”として、ドラッグストアや地方によくある「道の駅」などに売られているものと同じだ。

マムシに関しては実に奥が深く、精力増強、滋養強壮として、現在でも多くの利用者がある。「マムシ酒」がその代表である。「マムシ酒」は、生きたまま一升瓶に入れ、焼酎浸けにしたものだ。

その有様は目を背けたくなるほどグロテスクで、こんなものが薬なのかと、初めて見る人はまず信じないだろう。味はどうか?と聞かれれば、実は未成年ながら何度か飲んだことがある。言わずと知れた焼酎の味なのだが、何となく薬臭さの残る妙な味であった。後年、◯◯漢方の「赤まむし」とかいうドリンクを飲んだことがあるが、ちょうどそんな味であった。

マムシは相当生命力が強い生き物らしく、瓶の中に完全に焼酎で浸さないと、焼酎を飲み続けながら呼吸して、数ヶ月も生き続けるという話しがある。現にそういう、うっかり事故が発生しているという。もっともこれは、マイナーな情報であるが。

一方で、「マムシの干物」らしきものもあった。何しろ、皮と内蔵以外は全て利用できるのだそうだ。ある地方では「蒲焼き(皮と肉の間に寄生虫がいるらしいから注意)」にして食べるところもあるようだが、ボクの村では、もっぱら「干物」が主流であった。

「干物」の方法を簡単に言う。毒抜きの後、ウナギ料理の要領で目打ちをしてから皮を剥ぎ、内蔵を取り除く。内蔵の中にある黒豆大の「ユ(胆嚢)」というものを、「干物」にする前にまず丸呑みした。
皮を剥がした後、寄生虫がいないか点検する。それから首を切り落として天日に干すのである。

干す期間がどれほどだったか分からないが、ともかく水分が完全に抜けた時が食べ頃と思えばいいだろう。乾燥したそれを七輪で軽く炙り、そのまま食べるのだ。「元気がでるから」と母から言われ、ボクも何度か口にしたことがあるが、何となく、骨っぽい棒ダラのようなものであったと思う。

薬草やマムシに関しては薬効があるようだが、「モグラ」が何に効くのか、不思議でならない。
モグラは地中に住む小動物で、農家にとっては、厄介者として嫌われていた。彼らは目が見えない。せっかく丹精した農作物を狙って、せっせとトンネルを掘るのだ。トンネルは彼らの道であって、目指すエモノまでの道を、日々往来する習性がある。

彼らを捕獲するには、缶詰の空き缶をトンネルの途中に埋め、待ち構えるだけでいい。目が見えない彼らは、まさかトンネルに罠が仕掛けられているとは思わない。それで、ついそこにおちてしまうのだ。彼らの足はトンネルを掘るためにのみあるわけで、罠から脱出する術を持ち合わせていない。

生け捕りにしたモグラは、首を絞めてから洗った。そして再び缶に入れられ、炭火によってゆっくりと丸焼きにされるのである。モグラはやがてタドンのように黒焦げになる。母はそれを粉末にして、口を真っ黒にしながら飲み込んでいた。

我が家の水屋の中は、焼酎の臭いにあふれ、一升瓶にはグロテスクなマムシが腹を見せ、そして、軒先にはひからびたマムシ。台所の隅にはドクダミの袋と、ボクの幼児期の記憶の中は、マムシ酒と薬臭さで充満しているのである。

ほっぺたが落ちる・シリーズ3「鯨のコロ」

2008.11.28 (Fri)


この季節に思い出す料理のひとつは、「鯨のコロ」の炊き込みご飯である。
鯨肉には捕鯨条約に絡む、ややこしい問題がつきまとう。そのことはさておき、捕獲枠を制限される昭和30年代末期までは、一般家庭でも、ごく普通に食卓に上っていた。

それを知る人なら、「鯨のコロ」と聞くだけで『ああ、懐かしいなあ』と思うことだろう。今では、スーパーで希少な高級食材のひとつになっている。しかし、生のものは殆どない。多くは乾物である。

わが家でも年に2、3度、おでんに衣替えして食卓に上っているが、炊き込みご飯にするには、乾物は不向きなのだ。もちろん食べて食べられないことはないのだが、水に戻した時特有の「ザラつき」感が気になって、あまり美味しくない。それに、脂が飛んでしまっているのも良くない。

鯨肉が高級食材となって久しく、あれだけよく食べていた父も、ここ何十年も口にしていないらしい。

ボクがまだ小学生の頃であった。週に3度ほど隣町の魚屋が、浜坂漁港から穫れとれの魚介類を、トラックに積んで行商に来ていた。前にも述べたように、その当時は、殆どが量り売りであった。

上品に、トレイに乗せるような売り方ではない。ザルやバケツの単位である。カニ、カレイ、イワシ、ハタハタなど、そういうものは総て安価な庶民食材であった。お金で買えない時は「バケツ一杯に米一升」でよかった。

産業や流通の発達と漁獲技術の進歩で乱獲が進み、今では、サンマなど一部を除くと、鮮魚コーナーで暫く考えなければならないほど、高価になってしまった。

さて、「鯨のコロ」の話しに戻る。
この「鯨のコロ」も例に漏れず、セコい売り方ではなかった。とはいえ、鯨一頭と言うわけにはいかないので、そこは、適当な大きさで売るわけだが。たとえば「一斤」という単位である。「一斤」というのは、今でも食パンで使われている、ほぼあの大きさである。

もちろん「生」である。これは明らかに乾物とは違った。脂は乗っているし、歯触りもコリコリしていて、スポンジのような乾物とはまるで違った。

炊き込みご飯にするには、まず、サイコロ状に切って砂糖と醤油、そして酒、みりんで甘辛く、焦げないようにフライパンで味付けをする。米4餅米1の割合で出汁、その中に、あらかじめ味付けした「鯨のコロ」をハガマに入れて炊くのだ。

「具」は、「コロ」の他にゴボウ、人参、コンニャク、そして煮干し大根かカンピョウを一緒に入れた。炊き方は、薪か、少なくともガスで炊いた方が、焦げ目がついてより美味しくなるようだ。

(寄り道)
江戸末期まで、日本近海に大捕鯨船団を繰り出していた欧米諸国は、ただ鯨油を採るためにだけ大量に捕獲し、採るだけ採って、残ったもの総て海へ捨てていたという歴史的事実がある。

にも関わらず、手の平を返したように『動物愛護活動』などと称して、海賊行為をするシーシェパードやグリーンピースの偽善的暴力行為は、本来の目的を逸脱したテロリスト集団そのものではないだろうか。

もっとも釣り好きのボクが最近、残念に思うことは、特に日本近海から多くの魚が消えてしまいつつあることだ。その原因は、環境汚染や近年騒がれている地球温暖化によるものとされているが、それより、過剰捕獲の原因が大きいと思っている。

たかだか、自給率40%足らずのこの小さな島国で、供給されている全食糧の4割近くが、毎日捨てられている現状を考えると、「捕鯨推進」を、躍起になって唱えるのも、本末転倒のような気もするが。

サッカリン、アマミゲン

2008.11.27 (Thu)

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ひとくちに昭和30年代といっても、育った環境が違うと、生活レベルや、大袈裟に言えば文化そのものにも誤差があるだろう。三つ上の都会育ちの相方に「ひょっとして私より年取ってるんじゃないの?」と言われるのも無理はない。

たとえば、戦後まで配給制であった、砂糖の流通が解禁になった昭和25年(?)以降、都会では既に、一般家庭で使用されていたようだが、ボクの村のようなド田舎では、せいぜい裕福な家庭くらいで、おおむね人工甘味料が主流であった。

人工甘味料は、2種類あったと記憶している。ひとつは、サッカリンで、もうひとつはアマミゲンである。
サッカリンは、いわゆる粗目の顆粒状タイプで、記憶に鮮明なのは、父が発案した自家製のラムネに使用していたことだ。

以前、『井戸はオアシス』でも述べたように、エノケンのコマーシャル「渡辺のジュースの素」が、一般家庭に広まるまでは、父特製の自家製ラムネを飲んでいた。

暑い夏の盛りに飲むラムネなど、仮に一升瓶であっても、あっという間に飲んでしまうので、父がしていた製造方法を見よう見まねで覚えては、自分で作っていたほどだ。

小学生のボクができるのだから、作り方は実に簡単であった。まず一升瓶に井戸水を九分目くらい入れて、そこにサッカリンを入れ、瓶の口を塞いでから思いっきり振って溶かしておく。

そこに炭酸を何粒か放り込んですぐフタをする。サッカリンと炭酸が化学反応して白い泡を出し、フタを押し上げるので、両手で挟んでから更に振ると、ラムネのフタを開けた時のような気泡が、瓶一杯にシュワーと広がった。

もっとも市販されていたラムネやサイダーとは、似て非なるものとしか言いようがないが、それでも当時、清涼飲料水としては画期的と言ってよかったと思う。

一方、アマミゲンは主に料理に使用していた。ちょうどキャラメル箱大の箱に・・・たぶんビニル袋の中に錠剤薬みたいなかたちで入っていたと思う。甘みを必要とする料理の殆どに、このアマミゲンが入っていた。煮物にも、もちろん味噌汁にもだ。

このアマミゲンだが、当時はそれに慣れていたせいか、それほど違和感はなかった。しかし、わが家にも砂糖が使用されるようになって、アマミゲンがいかに不味いものであったか思い知らされた。

配給制の名残りかどうか、知る由もなかったが、お盆や正月の前に村で一括して共同購入していた。普段手に入りにくい食材やアマミゲンなどの調味料である。

そのサッカリンやアマミゲンは、発ガン作用の疑いを指摘されて、1969年、食品添加物の指定を取り消されて、それ以来、わが家の食卓から消えてしまった。

干し柿は越冬の準備

2008.11.17 (Mon)

民家と柿.jpg

雪の便りが北の方からやってくるこの時期は、どの農家も刈り入れは既に終わっていて、越冬の準備に追われている。越冬の準備は、まさに冬ごもり同然である。

積雪の多い我が村では、大量の雪に押し潰されないようにするための雪囲い、そして食糧の確保であった。ただ、どこにでもスーパーやコンビニのある今の時代と違い、その頃の我が村では雪に埋もれ、「陸の孤島」となれば、即、飢餓の危機が想定されるわけだ。

冬に育つ作物は殆どない。ハウスさえも大量の雪で埋まるか、さもなくば、その重みで押し潰されてしまうからだ。だから越冬のための食糧は、おのずと保存食が中心となるのだった。

もっとも白菜などの葉物でも、保存状態さえ良ければ、雪の下で十分維持できる。たとえば白菜は、潰されないように藁で縛ったり、大根、人参、ごぼうなどの根菜類は、一定の温度が比較的保たれる土中に埋めるのだ。

保存食は当然、漬け物と干し物になる。漬け物は大根、葉物で、塩や味噌、醤油に漬ける。干し物はさつま芋、柿、そして「カキ餅」という、餅を薄くスライスして天日に干したものが主流になった。

わが家の周辺にある何十本もの柿の木や栗の木などは、そのためにあった。

柿は知っての通り甘柿と渋柿に分かれる。甘柿は渋柿よりも早い時期に熟して、人さまのおやつに、山鳥のエサとなって、新米を口にする頃にはなくなって、裸木になってしまう。そして、そんな時期に渋柿の収穫が始まるのである。

渋柿は、生のまま渋抜きをして食べる方法があるようだが、主に干し柿にしていた。記憶の限りで4種類ほどあったと思う。

いちばん大きいもので「みのう柿」。この名前はボクの村で呼ばれていたもので、たぶん「愛宕(あたご)」という種類のものではないかと思う。ちょうど大人の手を合わせた(それより大きいかも知れない)くらいの、ずんぐりとして先が少し尖ったカタチであった。

富士柿(甲州百目)は、「みのう柿」よりはひと回り小さい(この富士柿は、どう呼ばれていたか思い出せない)。その他に、筆柿と西条が数本あった。

筆柿はその名の通り、全体が細長いカタチをしていて、干し柿にしても実が少ないために、天日に干している内、種ばかりになって、あまり食用にはならなかった。

また西条は、別の意味で干し柿にしにくかった。富士柿と同じくらいの大きさであったが、縦に4本の凹みがあって皮を剥きにくいことから嫌われ、山鳥のエサになるがままであった。

「みのう柿」は他のものに比べ大きいだけに、干し柿になるまで随分かかった。干し柿の方法として、地方によっては皮を剥いた後、一旦煮てから天日に干すところがあるようだが、ボクに田舎では、剥いて、そのまま一本の細縄の目に、等間隔に柿を挟み、軒先にのれん状にぶら下げた。

渋柿は、干し柿とは別にそのまま放置しておいても、暫くは腐らない。ただ、ゆっくりとゼリー状に熟したそれは、濃厚な甘さがあって、ボクは苦手であった。

もっとも干し柿が完成する頃は、どの種類でも甘みが強くなるので、干して固くなる前の、甘みが出始める薄茶色のものを好んで食べていた。

雪が降り始め、銀世界が形成される頃、村じゅうの軒先には、オレンジの色鮮やかな”のれん”が、白とのコントラストに映えて、とても美しかった。

新米を味わい、干し芋と干し柿を終え、漬け物樽を納屋に積み上げ、そして、大量の餅をついて「カキ餅」を吊るし、家屋敷の周囲を茅で雪囲いを済ませて、慌ただしく父は出稼ぎに旅立ったのであった。

ドングリのソフトクッキー

2008.11.03 (Mon)

どんぐりクッキー.jpg

この季節になると、ソワソワしてどうにも落ち着かない。秋の澄み切った空と、色づきかけた山々。そんな風景を見ていると、何か誘われているような気さえする。

というわけで、先日、久しぶりに「何とか狩」なるものをやってきた。
「何とか狩」、つまりこの季節の代表といえば「みかん狩」である。阿倍野橋から約30分、「上の太子観光みかん園」というところである。

駅前からは無料送迎バスがピストン輸送されている。駅から10分ほど。南向きの急斜面に色鮮やかなそれが鈴生りだった。が、園では、今年はどうやら不作だという。

みかん園に入るなり、ひっきりなしに響く園内放送。『当園は食べ放題ですが、取り放題ではありません。余分なものは取らないでください。また、お帰りの際にはチェックさせていただきます』と。

いやはや世知辛いことだ。
とはいえ、みかん好きの小生、そんな放送など気にしているヒマはない。ヨメとふたりで急斜面を汗しながら必死に頂上まで上る。一歩間違えば大けが間違いなしの斜面に、熟れ熟れのみかんが誘う。急な脇道のそこここに『当園でけがをされても、一切帰任を負いません』の立て札。

そんな立て札もおかまいなしに、甘い果実を次から次に。腹に詰め込む。しかし、だからといってそうそう食べれるものではないのだ。いくら頑張ってもせいぜい15個が限度。で、ヨメがひとこと。「スーパーで6個入り300円。ということは、入園料800円は高くない?」と。

なるほど、主婦の目は厳しいものだ。

みかん園の頂上のちょっとした公園には、何故かアスレチックや迷路があった。さつま芋掘りもできる。ひと株300円也。商魂逞しいというべきか、別に悪くはないしどこにでもあることだけど、何となく苦笑せずにはいられない。

温暖な斜面なのか、ここではまだ紅葉は殆ど始まっていなかった。
だだっ広い公園内を腹ごなしに歩いていたら、ドングリの実がたくさん落ちていた。「ドングリのおやつ、子どもの頃によく食べていた」という話しをすると、ヨメは目の色変えて拾いだした。

子どもの頃は、ハイカラな調理法がなかったので、採ってきたドングリの皮を剥き、1週間程度水にさらして灰汁を取った。重層か炭酸かを使ったかもしれないが、よく憶えていない。

ドングリも蓮の実も、たぶん同じだったと思うが、灰汁を取った後、フライパンでただ煎る。それだけで十分おやつになった。カリカリと噛むと、口の中で芳ばしい香りがして、落花生を食べているようであった。

問題は、灰汁をどう取るかであった。
で、すぐに食べるには最初から炊いて早く灰汁を出すしかないと思い、
①まず皮を剥いてから、鍋で炊いた。(今回は、マテバシイを使った)

②すぐに茶色いドブのような汁が出た。
③その汁を捨て、更にお湯を足す。それを何十回か(今回は20回程度だったと思う)繰り返す。
④実が柔らかくなれば、薄皮も自然に剥けるので、水につけたまま取り除く。

⑤ある程度灰汁が抜けたら、そのまま一昼夜水にさらす。
⑥その後、何度か水をかえる内に灰汁色が薄くなる。
⑦試食してみて、渋味が取れていれば灰汁抜き終わり。

⑧皮と汚れをきれいに取り除き、
⑨もう一度火を通し、裏ごしにする。(写真下段右)
⑩裏ごししたドングリを、十分冷ます。

⑪裏ごししたドングリ(3)に対して、小麦粉(2)の割合。
⑫更に、ベーキングパウダー、牛乳、卵、砂糖、バターを適量。
 (今回はソフトクッキーにするためベーキングパウダーを使った)
⑬⑪と⑫をムラなく混ぜ、そこに黒ごまを足して混ぜる。
⑭フライパンに油少々浸し、中火で6~7分焼く。(写真下段左)

見栄えはしないけど、そば粉のような芳ばしさと素朴な味、これがたまらない。甘みが強ければ、独特な芳ばしさの邪魔になるので、控え目な方がいい。また、これに砕いた落花生やクルミなど、お好みに合わせて入れてもいい。

ラーメンは「宇宙食」?

2008.02.24 (Sun)

戦後の混乱期のことは知らないが、食文化の変遷は、その当時から考えると目覚ましいものがある。とはいえ、食糧難であった当時について語れるほどの知識はないが。

飽食時代のど真ん中を謳歌した現代人には、想像もつかないほどの驚きが、ボクにはある。ともあれ、ボクが幼い頃、口にした食べ物の味が、今のものと全く違うように感じられるのだから不思議である。

時代とともに消費者の口に合わせた味付けに変わったのは、当然といえば当然だし、食する側の舌、いわゆる「味覚」そのものが変化したとも言えよう。
もちろん当時に比べると、美味しいものが圧倒的に多くあるわけだが、今の日常の食生活の中に「まずくなった」と、リアルに感じるものもある。

その代表例がカレーとチキンラーメンである。誤解してもらっては困るが、カレーやチキンラーメンがまずくなったのではなく、今のボクにはそう感じられるということだ。

昭和30年代に入った頃も、実に貧しい食生活だったが、ある意味、恵まれていたようにも思う。というのは、どこかの国の毒入り食品のような危ないものもなく、自前の堆肥で、自前で育てた野菜中心の理想的なヘルシー食品と、庭で育てた鶏の玉子、ヤギの乳。

滅多にない肉料理の時は、玉子の生みの親が食卓を賑わせ、猟師のお裾分けのシシ肉や鴨肉、時にはたぬきやウサギなどが彩りを添えた。そんなわけだから、年に何度もないカレーライスやチキンラーメンなどを口にすれば、目玉が飛び出るかと思うほど美味しく感じられたのだろう。

総べてがシンプルな、そんな時代とは違い、飽食を欲しいままにしている今、知らず知らずに味覚が麻痺してしまったのかも知れない。

よく分からないが、市販されているカレールーの数、レストランに行けばオリジナルカレーが、そのお店の数だけあるし、『ちょっとイレギュラーな、チキンラーメン初体験』でも触れたように、あの時代からは考えられないほど「食」の増殖が進んでいる。

初めてボクがチキンラーメンを食べた3年生の頃は、まだそれしかなくて、ラーメン=チキンラーメンであった。ましてやそれまでラーメンなどという名前も聞いたことがなく、日常の食生活の中の和食カテゴリーではない。

カレーライス自体が、やっと洋食と認識したくらいであったから、ラーメンなど、カテゴリー的にいえば一体何であった、それすらずっと謎であった。恐らく、ボクの中の感覚では、ラーメンは「宇宙食」に近い位置付けであったように思う。それくらいカテゴリーにはまらない、わけの分からない食べ物として見ていた。

そのラーメンやカレーライスだが、あれから45年経とうとしているにもかかわらず、あの頃の「味」が忘れられず、まだ追いかけている自分がいることに、正直驚いている。

チキンラーメンはともかく、カレーライスに限って言えば、あれから今日まで一度として、あれ以上のものを食べたことがないのだ。

キンチャン

2007.08.28 (Tue)

暑いこの季節に欠かせない食べ物がある。それは、数少ない「おふくろの味」のひとつであった。

女学生時代優秀であった母は、上級学校への進学と将来が約束されていた。しかし不運にも、母の父親の放蕩が祟って財産を無くした上、進学をも断念せざるを得なくなったことが後年分かった。
進学を諦めた母は、すぐに父の元へ嫁いだ。嫁ぎ先では厳しい環境と慣れない農作業の中で、3人の子どもをもうけ、休む暇もなく働き続けた。

時は移り、昭和43年、国内初の心臓移植手術が札幌医大で行われた。皮肉にもこの年の春、母は重い心臓の病いでこの世を去った。44才の若さであった。

ボクは「おふくろの味」というものを殆ど記憶していない。何故なら、母は料理があまり上手ではなかったからで、特に病状が重くなってからは、父が食事の支度をすることが多かったのだ。
元はといえば財産家のお嬢さん育ちで、学生生活を謳歌していたから、いわゆる嫁入り修業のようなものはまったく経験がなかったようだ。

その母が、ボクの記憶に残してくれた唯一の「おふくろの味」は、「キンチャン」という料理であった。
「キンチャン」は、こういう暑い夏を乗り切るための「スタミナ源」であって、少なくとも週に一度は口にしないと気が済まないのだ。今でも。

「スタミナ源」とか「夏バテ予防」で言うなら、酢の物、香辛料を使った料理、揚げ物がどうしても中心になるが、「キンチャン」は如何なることがあっても、欠かせない。だから、ボクの中では「暑い夏=キンチャン」なのである。

三世代同居の大家族であった。
それでも母がまだ身体が動かせた頃は、大きなテーブルを2つ並べて、埋まるほどの料理を作っていたが、これが毎日3度だから大事である。栄養のバランスはもとより、小皿でチマチマなんて上品な食事などできる筈もなかった。

3人4人の核家族の家庭では、まずお目にかかれない大皿が、デンっとテーブルに陣取り、野良仕事でささくれだった手が、四方から延びてくるのである。したがって料理は「メシ」で、食事は「喰らう」と言った方がイメージ的には合っていた。

味と言えば、お世辞にも美味しいと言えなかったが、味わうより、補給することが、何より大事な行為だったと思える。
しかし「キンチャン」だけは、僕は美味しいと思った。夏、暑くて食欲が湧かなくても、これだけはたくさん食べられた。

作り方は至って簡単である。
まず、玉葱と茄子を乱切りにして油で炒める。半分柔らかくなったところに、乱切りにした唐辛子を足して炒める。玉葱と茄子がほぼ柔らかくなったところで出し汁(多めに)を足し、砂糖、みりん、酒、濃口醤油の順に入れて味付ける。その後が大事なのだが、できれば唐辛子の葉を最後に入れて暫く煮込むと堪えられないのだ。ピリッとした唐辛子の辛さと、食欲をそそる唐辛子の葉っぱの香りが、見事なコンビネーションを生んだ。

最近では中華風に仕上げたり、唐辛子の代わりにピーマンで、甘くしたものが主流になってしまったが、ボクはやはり、醤油ベースで和風仕立てにこだわりたい。そしてピーマンではなく、これもやはり唐辛子に限る。

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ぼた餅、ブタ餅。

2007.03.21 (Wed)

端午の節句も啓蟄も過ぎ、土中の小動物たちが長い冬ごもりから目覚める頃、死んだような我が村にも、本格的な春の訪れがある。
虫とともに暮らしていると言ってもいいようなボクも、ムクムク起きだし、再び徘徊生活を始める。

古い習慣が根強く残る田舎は、年中、歳事にはこと欠かない。ともあれ3月21日は春分の日である。正確に言えば、21日の春分の日は彼岸の中日で、その前後3日間を含めて彼岸と言う(だから彼岸は7日間であり、秋の秋分も同じ)。

彼岸とは浄土思想に由来する雑節の一つと言われる。もともとは煩悩を脱した悟りの境地のことで、煩悩や迷いに満ちたこの世をこちら側の岸「此岸(しがん)」と言うのに対して、向う側の岸、要するにあの世のことを「彼岸」という。
浄土思想による極楽浄土は西方の遙か彼方にあると考えられ、春分と秋分は、太陽が真東から昇り、真西に沈むので、西方に沈む太陽を礼拝し、遙か彼方の極楽浄土に思いをはせたのが彼岸の始まりであると言われる。

そこで欠かせないのが「ぼた餅」である。
彼岸にする供物に何故「ぼた餅」なのか。これにはいくつかの説があるらしいが、もっともらしいのは、彼岸の頃に咲く花で、春には牡丹、秋には萩に由来すると言われる。言うならば牡丹が「ぼたん餅」となり、「ぼた餅」になったのであろう。
それならば何故、春の彼岸に「ぼた餅」、秋の彼岸に「おはぎ」と分けないのか、これもまた疑問として残る。

ボクはその「ぼた餅」が、たまらなく好きである。彼岸であろうがなかろうが、コレステロール値がどうであろうと、そんなことは関係なく、無条件に好きである。小さい頃からである。
向田邦子が言う「眠る盃」ではないが、その「ぼた餅」のことを、ボクは小さい頃、「ぶた餅」と言っていたらしい。五感の成長期に当たる子どもには、どうやらそのように聞こえるのだろう。
ちなみに我が息子が幼児の頃、「眠る盃」に匹敵するくらい数々の言い間違いを残している。たとえば「鼠」のことを「ダビジ」と言い、「ワカメ」のことを「アカメ」、スーパーのイズミヤを「ネズミヤ」などなど。

さて、話しを戻そう。
ボクが「ぼた餅」のことを、何故「ぶた餅」と言ったのか、親が言うには「お前は”ぼた餅”が好きだったからだろう。彼岸でもないのに、しょっちゅう作らせていた。で、ブタのように喰っていたから”ぶた餅”になったのだ」と。

今でも「ぼた餅」が好きである。それも、和菓子屋などで買うそれより、甘さを控えて、見てくれは悪いが、母親の作る巨大な「ぼた餅」が好きなのだ。
ボクが帰省した時は必ず、それを知っていてテンコモリの「ぼた餅」を、腹一杯喰わせてもらえるのだ。母親というのは実に有難いものだ。

『あそこの和菓子が旨い』と、そんな評判を聞く度に「ぼた餅」を求めて奔走する。創業云百年の○○屋とかデパ地下の和菓子コーナーである。上品でアンコたっぷりの美しい「ぼた餅」。評判の店は一通り食べ尽くした。しかし、母親の作る「ぼた餅」に勝るものは、ついぞ見つからなかった。これからも断じてないだろう。

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ほっぺたが落ちる…第ニ弾(モクズガニ)

2007.02.21 (Wed)

モクズガニのことをボクたちの田舎では「毛ガニ」とか「ヒゲガニ」などと言っていた。
先日、たまたま観ていたテレビが、モクズガニ漁解禁の取材番組であった。それによるとモクズガニ漁は、冬が一般的のようであるが、地域によって多少誤差はある。

大雪の降るボクの田舎では、モクズガニはおろか、総ての生き物が隠れて出てこないのだ。それで、夏が終わり川の水が冷たくなり始めた頃がシーズンになった。
「漁」といっても、仕事的なものではない、農閑期のリクリエーション的なニュアンスであって、どちらかと言えばアウトドアのような遊びであった。その頃は、まだまだ川の水もきれいで、たくさんの川魚やカニ、水生動物がいて、魚などは毎日捕ることができた。

もちろん魚は、釣りが主流であったが、「ヤス漁」「こぬか漁」「なで漁」「火振り漁」「松葉漁」などの方法があった。それに、何と言ったか憶えていないが、山椒の実を麻袋に入れ、上流の岩の上で踏んで、その汁で魚を痺れさせ、一網打尽にする方法があった(もちろんその漁法は、今は禁止されているが)。

モクズガニを捕るのにもっともいい方法は「サガリ」を使う方法である。川をV字形に堰止め、その先端に「サガリ」という罠を仕掛けるのだ。「サガリ」は、竹で編んだ親子の篭がセットになったもので、直径20cmほどの円筒形の親篭の入口に円錐形の子篭を差し込み、その子篭が「戻り」となって、一旦入った獲物が二度と出られなくなる形になっていた。

足早に夏が過ぎ、9月10月になると、川の水はみるみる冷たくなってくる。いつしかヒグラシの鳴き声もなくなり、あっという間に初冬の気配が漂い始める。そういう日の陽が沈みかける頃に仕掛けるのである。

モクズガニは、親指のハサミのところに真っ黒い毛が生えている。大きいオスの方は30cm以上に成長することもあり、大きいハサミは強烈なチカラを持っていて、挟まれるとケガをすることもある。

淡泊な味ではあるが、松葉ガニ、ずわいガニに比べてはるかに美味であった。
料理法は、そのまま湯がく方法、鍋にする方法と最近ではイタリアン風にしたり、炊き込みご飯と色々あるが、中でも、モクズガニの内臓でとった出汁で鍋にする食べ方が、もっとも美味しいだろう。

たぎらせた出汁の中にカニの内臓を入れ、すぐに「とろ火」にする(たぎらせると風味が飛んでしまう)。それからカニの身を入れ、白菜、青菜、ネギ、大根(あらかじめ火を通しておく)、ごぼう、こんにゃく、椎茸、木綿豆腐などを足す。とろ火で4~5分後、白味噌で仕上げをする。
カニの風味と、何とも言えない特有の甘さと香りが食欲をそそった。

モクズガニの内臓を焼くと、一段と香ばしい香りがする。そういう意味で塩辛は最適であった。
カニの甲羅を剥がし、掻き出した内臓を甲羅に入れたまま、七輪の上にのせて炭火で焼く。みりんを少々足し、火が通ったら酒で溶かした白味噌を更に足して味付け。好みによって唐辛子を入れるのもよい。
香ばしさの中に、ほんのりとした甘さとピリッと刺激感は、何とも言えない。酒呑みにとって、こたえられない肴になること間違いない。

それはそうと、四万十川のような清流は、まだ残っているようだが、それでもあの頃と比べものにならないほど激減している。河川の改修工事、工場廃水、生活廃水など、自然破壊の一途を辿った戦後半世紀、日本の中から清流と呼ばれるその殆どが、心無い人間によって姿を消している。

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「滋養」の概念!?

2007.01.25 (Thu)

あの嫌な脱脂粉乳で苦しめられ始めたのが、確か小学2年生だったと記憶している。その頃、学校でも各家庭でも「滋養」に対しての概念が、改められるようになった。

それまで「滋養」と言えば、玉子と牛乳と肉以外は考えられなかったようだ。玉子は簡単に手に入った。しかし、牛乳も肉も庶民にはなかなか手に入れることができなかったので、牛乳の代わりにヤギの乳を飲んでいた。肉の代わりは魚しかない。まさか玉子を生んでもらわなくてはならない鶏を、つぶす訳にはいかない。しかもお盆と正月の楽しみがなくなるのだから。

親たちは考えた。どこでどう学んだのか知らないが、「滋養=タンパク質」と決めていたようだ。要するに「タンパク質」であれば何でもいいのである。

果して、何がタンパク質で、どう滋養になるのか解明されぬまま、ありとあらゆるものが食卓を賑わし、口に入るようになった。たとえばタニシ、カタツムリ、イナゴ、地蜂の幼虫、カミキリ虫の幼虫(他にもあったが憶えていない)などの、いわゆる下手物食であった。

それでもボクたちは、「滋養」になると言われると食べるしかなかったし、それはもう「食する」というより「服用」という感じであった。ところがだ。生きている時の記憶や外見さえ気にしなければ、その下手物も、そう悪くはなかった。調理法に工夫が加えられ、味付けも凝ったものになったのだ。

タニシは味噌汁の中(ちょうどシジミ汁の感じ)へ、カミキリ虫の幼虫やカタツムリは火で炙り、醤油をかけて(サザエのつぼ焼き風)食べた。イナゴは佃煮にし、地蜂の幼虫は油で炒め、炊き込みご飯にして食べた。この地蜂の炊き込みご飯は、プチッという歯触りと香ばしい香りが食欲をそそる。是非進めたい逸品である。

同時期、食卓に上がった中に、一風変わったものがあった。それまで食べていたジャコ(煮干し)と落花生を炒めて粉にしたものと違う、妙なものである。親たちは何であるか言わなかったし、ボクも落花生抜きのジャコと思い込んでいたので、敢えて訊くこともなかったが、ある日、土間の壁に皮を剥いだマムシが干してあるのを発見した。
そういえば、粉の中にジャコにしては長い目の、白くて細い骨が混じっていたように思う。だが、あれはタンパク質というよりカルシウムではないのか。

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郷愁を誘う日本の「味」。

2007.01.23 (Tue)

食べ物の話しが多いのは、寝ることと喰うことしかない雪国なるが故。なにしろ外に出ようにも道は2階にあるし、仮に出たとしても誰一人歩いていないのだから、よほどの事件がない限りゴロゴロに徹するしかないのだ。

その雪国にとって欠かせないのは「保存食」である。
ポピュラーなところでは「たくあん」などの、野菜の漬け物になるが、それでも、その土地土地で異なる。糠漬け、味噌漬け、浅漬け、糟漬け、それに醗酵させるものや最近では韓国風に漬けるものも定着した。

野菜以外では、魚の薫製や糠漬け、干物だってそうだ。また、そういう「おかず」的なものではない「干し芋」や「吊し柿」などの嗜好品、いわゆる「おやつ」も、お菓子を買う習慣のない、雪国ならではの保存食であった。

「干し芋」は、さつま芋を蒸かして皮を剥く(蒸かす前に剥くと黒く変色するので後で剥いた)。そして適当な厚さ(7~8mm)にスライスして、縄に差し込んで天日に当てる。
秋から初冬にかけて、およそ1カ月から1カ月半干すと白い粉がふいたようになった。そうなる頃には甘さが一段と増すと言われた。
寒風に晒された干し芋は、歯が折れるのではと思えるくらい固いものだが、口に入れた瞬間、太陽と故郷の香りが口一杯に広がるようであった。

正月のお供えとして用いられる「吊し柿」も、そういう意味において同様である。あの濃厚な甘さは、大人になった今、殆ど口にすることはなくなったが、その頃は何百個も作って年中食べていたものだ。

保存食で苦手だったのは「ヘシコ」である。
「ヘシコ」は鯖やイワシやニシンに塩をしてから、糠味噌に漬け込んで醗酵させたものだ。ボクの家では「ヘシコ」を漬けたことはなかったが、隣町から来た魚屋のオヤジが、普通の鮮魚と一緒に売りに来ていた。
「ヘシコ」を覆っている糠味噌を拭い取って焼くのが、一番てっとり早い食べ方だが、お茶漬け風によい。味は、塩っぱいと言うしかないし、一切れで丼めし一杯は、十分食べられそうだ。また焼く時のあの香ばしい香りは郷愁を誘い、酒呑みにとって涙が出るほど、こたえられないものだ。

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