昔遊びと悪ガキ

キラキラとした別世界。・・・今考えると、これほど外の世界が魅力的に感じた時代はなかった。

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「雪国・温泉町」の偏見。

2007.02.06 (Tue)

「山陰やろ。山陰って雪降って寒いし、なんかイメージ暗い」
と、奈緒が言った。
「そやないって」
「でも、昔観たあの夢千代日記。温泉町の雪のシーンとか、なんかな、重いし暗~いイメージがする」
「あれは違うんや。あれはな、ドラマで作られた世界なんやて。本当はものすご明るいんやで」

ボクが何度言っても奈緒は、「夢千代日記」から受けた印象から離れようとはしなかった。しかし、奈緒が言うのも分からないではない。寒い雪国から受けるイメージは、どうしたって重くて暗いし、辛いことや悲しい物語が潜んで、暮らす人びとも、そういうものを背負っているように映るものだ。だからというのではないが、ボクの中にも日本海側や北国から受けるものは、奈緒が誤解したそれと同じものなのだ。明るくて暖かい沖縄や九州とは相反するものがあった。

「温泉町で働くワケアリの人と、地の人とは全く違うんやで」
「でも、あの温泉町は、漁の家の近くでしょう? そうは見えなかったけど」
確かに、そう言われても病むを得ないふしがある。「夢千代の里」などと観光の看板にしたり、ドラマの主人公がそこで生れ育ち、暗くて重い生涯を終えたかのように描かれているのだから、知らない人が観れば「そういうものだ」と思い込んでしまうのだろう。

日本には各地に温泉地があって、どの温泉町も似たような背景がある。
観光資源でもある温泉は、各地から客が訪れる。繁華街ができ、大人の遊び場もでき、そしてそこを中心に観光化が進み、町が発展するのだ。
湯に浸かり、旨いものを食べ、お土産を買って引き上げる者がいれば、そのまま居着く者もいる。客が増えれば競うように旅館ができる。そこで働く者が、あちこちから集まってくる。中には「ワケアリ」の人だって少なからずいるものだ。

ボクのクラスにもそういう家庭環境で育った者が何人もいた。そして、その多くが母子家庭であり、当時、もっとも理解に苦しんだのは、「名字」の違う兄弟がいたことである。ボクのクラスにいた「嘉成(かなり)」性の男の兄が「坪田」と名乗っていたのだ。

もう一人の男も珍しいタイプであった。中学に入学した当初は「○○栄一郎」と名乗っていたが、本人に訊くと、本当の名は「和広」だと言うのだ。「栄一郎」は、芸者であった母親が息子につけた“芸名”だったらしい。「栄一郎」は母親がつけた芸名が嫌で、答案用紙に「和広」と記入した。しかしその後、担任教師が激怒した。「お前の名前は、一体どっちなのだ?」と。
温泉町で働く人の多くは、旅館の仲居であったり、芸者であったり、ストリップ劇場や呑み屋であり、土臭い農家と全く違って日常的に色んな問題が起こっていた。

地の人の中には「他所から来たものは町を汚す」と、偏見を持つ者もいた。「そういう家庭は乱れていて、子どもも同じことをする」と、噂されることも度々あったし、現に何度か妊娠騒ぎがあり、その元凶がそこであったりすると、「ああ、やっぱり。親が親なら子も子だ」と、偏見は止まなかった。

一方、いわゆる「地」の人というのは、見るからに土臭い田舎もんであった。近くに漁師町もあり、ガサツで荒っぽいところもあった。自然を相手に日々野良で汗する農民は、例外なく日焼けして堆肥の臭いをプンプンさせていた。大声で話し腹を突き出して笑う。単純であたたかく、生活は苦しいが、どちらかと言えば、騙されやすい人の良さがあった。

「山陽」と「山陰」。
今は差別語とされているが、ボクは何故「陽」と「陰」なのか分からない。それについて語った人がいる。それは、中国山系と跨いで陽の当たる南が「陽」で、陰になるのが「陰」というのだろう、と。しかし、その説は間違っていると思う。

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コメント

どんどん「重く」なっていくなあ。いいんだけれど。

「秋津温泉」という映画がありました。松竹ヌーベルバーグの吉田喜重監督、主演は岡田茉莉子。

「秋津温泉」は、岡山にあるオキツ温泉(こんな感じの発音だった)のことだとか聞いたことがあります。この温泉が山陰なのか山陽なのか、知りません。

山陰であろうと山陽であろうと、映画「秋津温泉」は、驚異的な復興&成長をとげた日本を批判的に捉え、しかも、強い説得力がある映画だった。つまり「暗い映画」だった。今村昌平監督の「豚と軍艦」の重かったけど、「秋津温泉」も重かった。

この映画は小説を原作にしている(小説は読んでいない)。で、ぼくは当時(つまり、映画を観ただけの状態)、この映画はかならず、これと同じような事実があったのだろうと思いました。少なくとも、フィクションで書けるものではないと思った。

小説化し、それが映画化されるんだろうから、フィクション部分が膨らむのは当然なんだけど、それでも、この映画には、そのような事実性とでもいうか、リアリティがあったと思う。こうした事実性はフィクションでできるものではない、と思う。

三島の「金閣寺」は事実に基づいて書かれている(ということだ)。だけど、フィクションのように思われる(へえ、事実か、という感じ)。リアリティがない…というのもおかしいのですが、リアリティとしての説得力がない。(フィクションとしての説得力はあるのかもしれない)

「秋津温泉」のリアリティは、第一に、長門裕之の変質ぶりに説得力がある。次に、岡田茉莉子の変化と変化しないところにあると思う。長門裕之の変質ぶりは、ある程度パターンだけど、岡田茉莉子が演じる女性の「変化」と「変化しないところ」は、そう簡単に言葉にできないところがある。

つまり、この女優さんはキツイ顔をしているけれど、柔軟な理解とその演技ができる、優れた女優さんだと思った。同時に、キツイ感じの美人であることが、この女優さんにとってマイナスに作用しているなあと思った。

大枠での話しは―――、戦後は誰も彼もゼロから出発するとしましょう。ここで、戦後復興(経済成長)とそれ以外との間にミゾができてくる。都会と温泉街との「時代」に対する温度差ということです。

この場合の「温泉街」とはワイザツな温泉街という意味ではなく、田舎の意味です。戦後復興から、都市化から取り残された地域=戦後の出発点であったゼロを保持している地域ということです。

温泉街の旅館の女将、温泉街の飲み屋の女将…。バブルを経たところで語られる「女将」ではなく、地方の旅館業、地方の飲み屋のおかみさん。この人が戦後をどのように見ていたのか。

たぶん、ゼロから出発したけれど、なにも変わらない。それどころか取り残されていく。それ以上に、老いが自分にやってくる。むしろ、マイナスの方向にしか日本の戦後復興は働かなかった…のではないか。

この映画の、岡田茉莉子の自殺は、極論すれば、地方(温泉街)の都市化であり、温泉街の猥雑化であり、もっといえば、バブルへの突入のサインだったのかもしれない。

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