昔遊びと悪ガキ

キラキラとした別世界。・・・今考えると、これほど外の世界が魅力的に感じた時代はなかった。

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一本の刀。

2009.10.12 (Mon)

「一体、自分のルーツは誰で、どこから来たのか?」。
そんな疑問を持つのはボクだけではない筈。

父によれば、夏海家の七代目がボクなのだそうだが、初代のその人が、まさか降って湧いわけではない。その前は。そのまたずっと前はどこの誰なのか?である。

友人にその話しをしたことがある。彼もまた、そのことを何度も考えたことはあるようだが、先祖の戒名は五柱しかなく、その前のことを知る親たちは、もうこの世に存在しない。だから、そのことを考えることは諦めたようだ。

ボクの一言に彼は一蹴した。「どうせオレたちは、一匹のサルから始まったのだから、兄弟みたいなもんや!」と。
まあ、そう言われればそうとも言えるし、いくら分からないことを頑張って考えたところで、失礼ながら、かつては「神」とまで崇められていた天皇でさえ、ボクたちと同じ一匹のサルから始まっただろうから。

話しが少しズレてしまったが、この「謎解き」が始まったきっかけは、一本の短刀を見て以来である。

我が家には一本の短刀があった。いや、たぶん今でもある筈である。
それは、短刀というには少し長めの脇差しほどの長さであったであったと思う。
小学生の五年の時に祖父が亡くなった時も、中学卒業直後に亡くなった実母の時も、白装束の胸元に置かれてあった。

短刀は何故かツカもツバもなく、刀身は既に錆び付いていた。ボクが小学生になった頃、仏壇の引き出しにしまわれていたそれを、錆び付いているからといって、一度研ごうとしたことがある。長さ40センチ以上はありそうな、そして、子どものボクには扱いきれないほどの重量感があった。

砥石を濡らし、茶色く錆び付いた刃をジョリジョリといわせながら滑らせる。次第に青白い光りを帯びてくる。と、いない筈の祖父が、ボクの後ろで仁王立ちしていた。「お・ま・え・は、何をしとるんじゃ!」。

ボクは一瞬、その刀で切られるのかと思った。そしてそれ以来、仏壇の引き出しから消えてしまった。しかし、祖父に怒られたことより、「ツカやツバが何故ないのか」ということが気になりだした。

父の話しでは、父の祖母が亡くなった時からないのだそうだ。噂によれば、貧乏していた父の叔父、つまりボクの祖父の兄弟の誰かが、お金に換えるために盗んで行ったのだそうだ。

ともかく祖父と実母の胸元に、ツカのない、ツバもない、黒光りするサヤだけの錆び付いた短刀が置かれていたのだが、それ以後、一度もボクは目にしていない。もっとも我が家では、実母の死後から今日まで、不幸な出来事がなかったのだから、当然目にする筈がないが。

短刀に「銘」があったかどうかまでは記憶にない。しかし、ツカやツバのない中途半端な短刀の存在や「銘」なんかより、もっとボクを悩ませたのは、「自分のルーツ」のことである。

父が記した我が家の系譜は次のようなものである。
ボク ← 父 ← 祖父(隼太)← 俊太郎 ← 隼之介 ← 蔵時 ← 俊一郎・・・。
これ以上は、父にも分からない。

戒名には生年が刻まれている。それによれば、五代目の祖父・隼太が明治22年(1890)生まれ、四代目・俊太郎が明治元年(1868)、三代目・隼之介が嘉永2年(1849)、二代目・蔵時が文政10年(1828)、初代とされる俊一郎は文化3年(1807)となっていた。

ボクから数えて四代前の俊太郎の時代には、既に農業を営んでいたことは分かっている。つまり、1849年に生まれた俊太郎の父・隼之介は、激動の江戸末期に武士を捨てて、播磨から但馬へ転居(実際は逃げてきたと噂がある)し、明治元年に俊太郎が生まれたそうだ。

だが、その前の蔵時のことも俊一郎のことも、はっきりしたことは分かっていない。要するに播磨で某かの扶持を頂いていたのか、である。父もそのことは親から聞いていないし、事情を知っていそうな親類にも聞いたことがあるらしいが、そんな大昔のことを知るものは、一人もいなかったのだそうだ。

これ以上の追跡は不可能ということだ。
だが、そんな謎だらけの夏海家の先祖にも、歴史的大変革があった幕末から明治の文明開化の風を受けたことに違いなく、一本の短刀のみが、すべて事実を知っているであろう。

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コメント

No title

こんばんは♪
ご先祖さまのこと、私も、母の生前の願い
でもあったので、調べましたね。
おんなじころが、一代目さんの誕生でした。
若くしてなくなっていたり、養子に出ていたり、ややこしいですわ。
ある程度調べたら、ほったらかしてます。
考えすぎるし、想像しすぎるし。。。。。

No title

ルーツを解き明かす旅に一本の刀。
その刀一本で色々な過去の物語にタイムスリップ。
いいな~~
夏海家には良い宝がありますね。

No title

ほのぼのさんもやっぱり調べたんだ。
ほのぼのさんとこのご先祖は、何屋さんだったの?

系譜って書けるのは、オヤジでも限界があるみたいです。ちゃんと憶えてるのは爺さんのオヤジ兄弟までで、そっから先はまったく無理です。
分かるなら、調べたい気はするんだけどね。

No title

DAIKさん

実はね、その短刀のことを骨董屋に、それとなく聞いたことがありましてね。もう15年前になりますか。
骨董の価値というのは、ツバでもツカでも、ひとつでも欠けたらガラクタ同然なんだそうです。

DAIKさんとこのご先祖は?

No title

コメント(車椅子購入の記事への)、ありがとうございます。

車椅子で梅田を動いていて、発見したことがあります。

現在の阪急百貨店(新築の阪急Dept)の地下一階、ここは普通に地下一階で数メートル先の階段を上がれば、地上の曽根崎警察横に出て、旭屋書店に行ける。

ところが、この地下一階から現在工事中の旧阪急Deptの横を通って、プチシャンを通って「三番街」に行けるわけですが、行き着いた「三番街」は地下二階になっている。「三番街」の地下一階に行くためには、ちょっとしたエレベータなり階段を上らねばならない。

つまり「三番街」は上下に狭いというか、天井が低い構造になっていると思われます。

でも、このことが言いたいわけではなく、今回の発見とは―――「三番街」の地下一階と地下二階を結ぶエレベーターがない!ということです。少なくとも、一般人が使えるエレベーターはない。


最初、警備員さんにエレベータはないのかと聞いたら、ご案内しますと言って、バックヤードのエレベーターまで連れて行ってもらった。そのときの説明では、「三番街」が出来た頃にはバリアフリーの考え方がなかったので‥ということだった。

そのバックヤードのエレベーターとは、荷物用のエレベータで店舗従業員の人たちが利用するもの。B1の鉄のドアからすいっと入ってバックヤード特有の油臭い匂いのエレベータで地下二階に行くと、そこは荷物を運び入れる軽トラックなんかがうろうろする空間にでる。そこを渡って店舗従業員の人たちがタバコを喫ったり飯を食ったりしているところを横切って、「三番街」地下二階の通路のヘンな出入口からポンと出てくる。ちょっとだけ忍者の気分になれる秘密の通路です。

驚いたことに、「三番街」には、地下三階、地下四階まであることがわかった。でも、まだ行ったことがないから、どんなフロアなのかわからないけど。

「三番街」が出来たのはどのくらい前なんだろう、20年くらいは経っているのかもしれない。そのときにはバリアフリーの考え方はまったく無かったということになる。車椅子、ベビーカーは想定されていなかったわけです。
(ベビーカーは、エスカレーターでもなんとかなるところはあるんだけれど)


たしかに、ぼくの実感でもそんなところはあったなあ~と思う。

バリアフリーの考えが出てきたのは、せいぜい10年以内、実質5年ほどではないだろうか。また、ぼく自身、バリアフリーというと居宅の敷居を低くするとか滑らかにするとか、その程度にしか考えていなかった。

でも、車椅子で動てみると、社会環境整備の問題だなあ~という気がしてきた。個人の家のことではなく、都市計画というとオーバーだけど、都市設計には多少は関係すると同時に、基本は細部における都市整備の問題ということ。


「宝塚南口」という古い駅がある。ここには知ってるかぎりエレベーターが一基しかない(車椅子ライフがそれほど長くないので一度しか行ってない)。このエレベーターは駅内に通じている(一度、外に出て切符を購入する必要がある)。

さらに、監視カメラでチェックされてエレベータに乗ることができるというわけ。―――答えは、このエレベータは荷物用のエレベータだったということです。これを急遽、バリアフリー対策として消費者に開放したため、こんなことになったのでしょう。

つまり、古い建造物には総じて「急遽、バリアフリーに対応した」の感じがあります。また、細部への目配りが「わかってない(というより、わからなかった)」という例もあります。



宝塚の「花の道」の横に、立派なマンション建築物があります。当然、若者ターゲットではないわけだし、だから、200mほどの間にエレベータが2基はあって(利用した限りは)、エスカレーターが常時動いているし、ま、充実したお金持ちマンションなわけです。

だから、一階の通路(‥というか)は凝っていて、形はいろいろだけどほぼ20cm四方程度の石が敷きつめられていて、足裏に心地いい感じがあるようになっている。でも、ここを車椅子で動くとなると、車椅子に乗っている人間には身体異常が起きそうになる。

高齢者に優しくという思想はあっても、車椅子の現実を知らない‥とでもいうものがある。


オバステの時代は遠い昔のことだと思っていたけど、実際は、緩やかな感じで現代にも、そして現在にも続いていたのかなあ~と思うところがあります。

今は、高齢者が溢れる社会になっているけど、でも、これからも高齢者が減るとは思われないわけで、現在版「産めよ増やせよ」のシュプレヒコールには、ぼくは距離を置きたい。少子化はそんなに憂うべきことなのかなあ~という気がするんです。

ま、いつものとおり酔眼になってきたので。

No title

nineupさん

ただでもややっこしい梅田方面は今、工事中で余計に鬱陶しく、仕事以外で努めて行かないようにしています。
また東京を例にしますけど、東京の方が分かりやすい。都市デザインのセンスの問題か、人間性の問題なのか、ともかく大阪の(都市計画の)プランナーは、はっきり言って頭が悪いのだと思う。

阪急Deptはもちろん、特に大阪南口から東は、歩くだけイライラする。歩いていて、刺々しくなるのに10秒とかからない。
駅から地下道へ。ちょっと前までは地上を歩くより、標識の多い地下道の方がいいと思っていましたが、いつからか、気がつけば地上の方を選ぶことが多くなっていました。

「三番街」は、ボクが大学の時には、既にあったと思います。おしゃれで、「川の流れる町」だったか、そんなフレーズに誘われて、若者たちが集まっていました。

そこへ行くのがおしゃれで、そこを知らない人は、いわゆるダサイとされていた時代。特に用事もないのに、そしてコーヒーを飲む金も持っていないのに、ただそこへ行って、おしゃれな音楽を聴き、おしゃれな女の子を眺め、おしゃれなブティックを遠くで見ていました。

でも、その「三番街」は今、どうなっているのかな?
これも時代の激流に、完全に取り残された、哀れな「クチ」なのか?

それはともかく、
そういう不便な場所を探しながらの行動、大変だと思います。聞ける警備員がいればいいけど、それは偶然で、いないケースが殆どといっていい。

車椅子を利用している方は、そういうのよく知っているから、ますます出なくなるのでしょう。身体に障害や病気の方は、「外に出れば、他人に迷惑がかかる」と思って、余計でないようになるのでしょう。

この国の人間は、本当に小さいと思います。
「エコ」とか「バリアフリー」と言っておけば、ともかく世間体がいいからと、実行する気もないのに、いい顔ばかりする。

ああ、また長くなった。
この件、またメールします。

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