昔遊びと悪ガキ

キラキラとした別世界。・・・今考えると、これほど外の世界が魅力的に感じた時代はなかった。

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友三郎叔父

2009.12.18 (Fri)

この叔父は、今まで(亡くなるまで)4、5回くらいしか会っていない。
父の5人兄弟の次男にあたる叔父は、学校を卒業してすぐに横浜に居を移した。昭和30年代に神奈川県足柄下郡という土地で電気屋を興し、老齢になるまで店をまもった。

その叔父に会ったのは、何年かに一度の割合でお盆に帰郷した時と、中学生の時、修学旅行で東京へ行った帰りに、箱根山に登り富士山を見て、十国峠から熱海の旅館に滞在した時に、突然訪ねて来た時くらいだったか。

但馬と伊豆では遠すぎる。だから自然に疎遠になったのだろう。ボクが高校になってから以降は一度も会っていない。年賀状は毎年届いていたが、3年ほど前からこなくなった。というのは、その頃既に体調を崩してペンをとれなくなったのだろうか。案の定、去年の暮れに突然「喪中ハガキ」が届いた。

年賀状以外の交流が殆どなかった父とその叔父。父も自分より若いのだから、先に逝くなど夢にも思っていなかったふしがある。父は「亡くなったことも知らせず、冷たい」と詰ったが、後の祭りである。兄弟は他人の始まりというが、そういうものなのか、と思う。

まだ我が家にいた叔父の若い頃のことは、父から殆ど聞いていない。父から聞いていたのは、小さい頃から電気に興味があって、自分で蓄音機を作ってしまったことだけであった。もちろんそれ以外のことを本人から聞ける筈もないが。

熱海には行ったが、旅館のロビーらしき所で暫く話した以外に全く記憶に残っていない。たぶんその頃まだ40歳に届いていなかった筈の叔父である。若々しく、エネルギーに満ち溢れて見えた。黒ぶち眼鏡の中の目がキラキラと輝いて、直視できないほどに眩しかった。

叔父は十代の頃から電気に興味を持っていた。興味というより「執着」という言い方が正しいかも知れないが。何しろ十代の若さで、既に将来の夢なるものが実現できると確信していたのだろう。

産業や経済が発展した現在ならともかく、その昔は、将来設計は生まれた時から決められていたようなものだったと思う。つまり農家で生まれ育てば農業を、商家であれば2代目にという具合に。そういう意味で言うなら、叔父など殆ど異端児なのだろう。貧しい農村には場違いなくらいに。

田舎の、特に農家になると、その息子は当然後を継ぐことになる。「人権無視」とか「人格破壊」と思われるかも知れないが、今の時代には考えられないことがまかり通っていた。父もそうであった。父のことはいつか触れるとして、叔父は、思い通り電気の世界を目指した。

ところがだ、昭和10年代の頃と言えば、電灯の他にはせいぜいラジオくらいしかなかったと思われるから、これも不思議といえば不思議だ。電灯はつまり「裸電球」の上に傘が被さっているだけの灯りで、戦時中のドラマによく出てくる茶の間シーンが浮かぶ。空襲警報が鳴ると、その傘の上から布を垂らして、灯り漏れを防ぐあれである。

そんな物資不足で、しかも一般家庭の電化製品と言えるものが、電灯とラジオしかなかった時代に、電気に思いを寄せていたなど、それだけでも叔父はすごいと思う。

父の少ない話題の中で話しを繋ぎ合わせるとこうなる。
まずは電灯ないしはラジオがターゲットだろう。少年の感覚として「灯りを発する電灯」あるいは「音が聞こえる電気の箱」が、如何なる構造から成るのか、それが不思議であったに違いない。

たぶん叔父は、それらを分解することから始めた。分解して、再び組み立てる。組み立てると、元通り機能するか確かめたくなった。ちゃんと機能することが分かれば、新しいことが始めたくなるというもの。

叔父の興味は「蓄音機」であった。
現在のオーディオ機器などの電気製品総て、LSIの基盤が心臓部になっているが、この頃の音響関係はまだ真空管式であったから、機械そのものが巨大で、その上故障しやすかった。ラジオも巨大であった。我が家にあったそれは、小型犬の犬小屋くらいの大きさはあったと思う。真空管の寿命は短くて、切れると取り替えなくてはならなかった。

蓄音機はずっと以前からあるにはあったが、ボクが実際に見たのは、骨董品としてである。もちろん一般家庭、それも田舎の農家でその時代に、蓄音機を目にすることは考えにくいから、叔父がどこでそれを見たのか、である。それこそが叔父の一生をも左右する大事件と思えるから。

叔父は、どこかで蓄音機を見付け、「手に入れたい」から、恐らく「自分で作りたい」と、次第に変わっていった。そう変わったのは、我が家の経済状況では手に入らないのが分かっていたから、必然だと思う。

そして叔父は、ついに作ってしまった。十代の叔父が。


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コメント

追いつくのが難しい

HP記載ありがとう。
グーテンベルグ印刷技術で誰もが字を読めるように。コンピューターで誰もが情報を伝達できるように。
紙に印字された時代から空間の中の文字へ。技術の進化に僕の脳味噌は追いつけない。悲鳴が。でも、紙の印字では追いつけないような暮らしの変化がすでにおきている。何とかついていきたいと思う年末です。今、欲しいなというのは「字だけを打つ」ポメラです。脳内の世界をどこでも、すぐに文字に表現できる優れものと、思っています。

No title

こんばんはーさっぷいですよ(^^)
今日は、何時間も雪とりしました。
すごい叔父さんがおられたのですね。
夏海さんのお父さんも器用なかただなぁって、思ってますが、皆さん器用ですね。
あの、でっかい蓄音機・・・ある風景がいいですよ。

No title

中年さん

「字だけを打つ」ポメラは知りませんでしたね。でも結構高価ですね。
ボクはどうしてもPCには、多機能を求めてしまいます。デジタル嫌いなのに、なければ困るし、文字だけというのも不便です。会議の記録とか、ライターであればそれだけで十分でしょうが。
デジタルはどんどん進化すると思いますが、あまり追いかけることなく、そこそこにしておこうと思います。

No title

ほのぼのさん

叔父は、父の兄弟の中では兄弟と思えないくらい別人格でした。人格的に欠陥があるっていうのじゃないけど、なんでしょうね。文系家族の中に、そんな環境はまったくないのに、降って湧いたような「理数系人間」ですか。

それはそうと、さぶい!!
今日、大阪城あたりで雪が降ったみたい。
ここは降ってないのに。
同じ市内でも全く違います。

凄さの意味は。

ちょっと読んだ時はよく判らなかったが、この叔父さんの名前がいいな~と感じた。なんだか「武士のような」名前だ。だからかな、自力で新しい時代の匂いのする「商売」を始めたんだろうと思う。蓄音機、エジソンの問題意識と同じだ。スゴイ。一つのことに集中する能力にはかなわない。
昭和10年代、そういえば11年長崎出身、安田少尉は、2・26に決起した。弟さんは村に3台あったラジオで事件を知ったと言う。蓄音機は叔父さんの運命を決めたのだとすれば凄いなと思った。

No title

中年さん

たぶん、想像通りです。加藤友三郎の名を頂いたのだと言うことです。たしか海軍の軍人でもあり総理大臣だったとか(自信はありませんが)。
でも、父曰く、叔父は自分の名前を気に入っていなかったそうです。戦争が嫌いだったようですし。

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