昔遊びと悪ガキ

キラキラとした別世界。・・・今考えると、これほど外の世界が魅力的に感じた時代はなかった。

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生野の変

2013.01.12 (Sat)

実家に帰ると必ず寄るところがある。
町の一番南のある「山口護国神社」だ。
殆ど誰も寄ることのない、寂しい神社だけど、
いつもきれいに手入れがしてある。

tyukonnhi.jpg

この神社は、この町の大戦の戦死者が祀られているので知られているが、
以前にも投稿したように「殉節忠子の墓」があることでも知られている。

sekihi1.jpg

「殉節忠子」とは、幕末に攘夷派志士として戦った人たちのこと。
「生野義挙志士殉難」の地が、生野「山口」である。
幕末の文久3年(1863年)10月に但馬国生野において
尊皇攘夷派が挙兵した事件で、生野の乱、生野義挙とも言う。

kannban.jpg

「生野の変」で敗れ、自刃した長州の南八郎ら、
幕末志士を祀るとともに、明治維新から昭和にいたるまでの
地元戦没者を祀っている。
石碑の揮毫は、山陰道鎮撫総督であった西園寺公望の書。
南八郎らが自刃した旧朝来町山口の妙見山の山麓。

minami.jpg


石碑には「議論より実を行え なまけ武士、国の大事をよそに見る馬鹿」とある。

「南八郎」の石碑の向い側に「平野国臣」の碑がる。
平野は福岡藩士、大蔵氏の流れをくむ。
攘夷派志士として奔走し、西郷隆盛ら薩摩藩士や真木和泉、
清河八郎ら志士と親交をもち、討幕論を広めた。

文久2年(1862年)、島津久光の上洛にあわせて挙兵をはかるが
寺田屋事件で失敗し投獄される。

出獄後の文久3年(1863年)に三条実美ら攘夷派公卿や真木和泉と
大和行幸を画策するが八月十八日の政変で挫折。
大和国での天誅組の挙兵に呼応する形で但馬国生野で
挙兵するがまたも失敗に終わり捕えられた。

身柄は京都所司代が管理する六角獄舎に預けられていたが、
禁門の変の際に生じた火災を口実に殺害された。

hirano.jpg

幕末から明治にかけて、この地でもまた多くの血が流れた。

sekihi.jpg

長年の風雨に晒されて、判読不可能なものが多いが、
京都を中心とした歴史の畝りの先端が垣間見える気がする。



<参考>
文久3年(1863年)8月、吉村寅太郎、松本奎堂、藤本鉄石ら尊攘派浪士の天誅組は孝明天皇の大和行幸の魁たらんと欲し、前侍従中山忠光を擁して大和国へ入り、8月17日に五条代官所を襲撃して挙兵した。代官所を占拠した天誅組は「御政府」を称して、五条天領を天朝直轄地と定めた(天誅組の変)。
天誅組の過激な行動を危惧した公卿三条実美は暴発を制止するべく、学習院出仕の平野国臣(福岡脱藩)を五条へ送った。
その直後の8月18日、政局は一変する。会津藩と薩摩藩が結んで孝明天皇を動かし、大和行幸の延期と長州藩の御門警護を解任してしまう(八月十八日の政変)。情勢が不利になった長州藩は京都を退去し、三条実美ら攘夷派公卿7人も追放された(七卿落ち)。
そのころ三田尻の招賢閣に、筑前の平野国臣と但馬の北垣晋太郎(但馬の青谿書院出身)が逗留し、但馬義兵を呼びかけていた。長州藩は自重したが、河上弥市(南八郎)は奇兵隊第2代総監の職を投げ打ち、隊士13人を引き連れて但馬へ向った(長州藩内の内紛である教法寺事件の責任のため、奇兵隊初代総監の高杉晋作は謹慎中であった。同じ大組士の家に生まれた河上は高杉の幼少のことからの親友であった)。
変事を知らない平野は19日に五条に到着して、天誅組首脳と会って意気投合するが、その直後に京で政局が一変してしまったことを知る。平野は巻き返しを図るべく大和国を去った。
天誅組は十津川郷士を募兵して1000人余の兵力になるが、装備は貧弱なものだった。高取城攻略を図るが失敗し、9月に入って周辺諸藩からの討伐を受け、多勢に無勢で各地で敗退し、9月27日に壊滅した。
七卿の一人、公卿沢宣嘉を主将する一行は但馬に向かう途中で、京・四条木屋町の具足屋大高又次郎のところで武器調達をするため、京の旅籠花屋に宿泊していた但馬の進藤俊三郎(原六郎)らが、大和国から逃れてきた土佐の池内蔵太(後に海援隊士)に会い、天誅組大和破陣を話を聞き、京から進藤俊三郎が播州へいき、生野挙兵を目指す一行へ情報をもたらした。平野国臣と北垣晋太郎らは、一旦挙兵を自重し、再度の時期の到来を待つべきと主張したが、結局、河上弥市(南八郎)らの挙兵強硬派の主張がまさり挙兵にいたる。







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コメント

君がため・・・・

夏海 漁様 こんにちは
♪君がため命死にきと世の人に語り継ぎてよ峰の松風♪
大和義挙に失敗し、切腹し果てた天誅組総裁の一人であった松本奎堂の辞世の歌です。
この辞世の歌は我が家の客間に掛かっています。
それが亡父の遺した貴重な形見だからです。

松本奎堂は小生の住む刈谷市の出身で、亡父にとって天誅組の精神は心の拠りどころであり続けたようです。
父を連れて松本奎堂の菩提寺にお参りしたこともありますし、父の亡き後に小生が代参したことも何度かあります。

今回図らずも天誅組の記事を目にして、父の在りし日を回想出来ました。
ありがとうございます。

生野方面へドライブしたい

漁さん、まいどです。
お正月から、大作のブログやね。日本海方面の維新の足跡は、桂小五郎が京都木屋町の「老松」から逃れた、城崎温泉くらいしか思い浮かびませんでした。
昔もむかし、会社の連中と谷瀬の吊り橋にキャンプに行った帰り、十津川郷士の天誅組のお墓にお参りしたことあります。
朝来や生野といえば、ぜひ行きたいのが竹田城です。雲海のシーズンは3月でもいいのかしら?映画「ノルウェイの森」に出てきた滝を見に行くのとあわせて1泊2日のドライブは今年のテーマです。

ぶちょうほうどのへ

ぶちょうほうどの、これはすごいことです。
と、私の場合、そう思ってしまいます。何しろ、天誅組の祖・刈谷藩士松本印惟成の二男・奎堂と同郷であったとは、全くの偶然といいますか、驚きです。
辞世の歌『書?』を是非、生で見たいとチラッと思いましたけど、反面、恐ろしい気もします。
と言いますのは、「天誅組の精神」というのは、毒され歪になった私のようなものにとっては、あの純粋さは恐怖だという気がするからです。つまり、効き過ぎる薬のようなものです。
先日、テレビドラマで「白虎隊」をやっていましたけど、ある意味共通していると思うのです。

でも、見たいなぁ・・・、なぁAOさん。

AOさん、まいど!

大作なんて言われると恥ずかしいですわ。
誰かに話して聞かせるだけの知識はないのにエラそうにね。
でも、この時代のことは好きであれこれと調べたり、それが小説なんかと符合していたり、この石碑に彫った詩やその中の意味を見ているだけで、なんか、もつれていた糸が、ひとつずつ解けていくような気がする。

城崎と小五郎の話しは知ってます。
けど、何となく作り過ぎてるのかなあと、思えなくもないです。
岩倉と龍馬の関係も、どうだったか分からない。
知りたいね、本当のことが。

竹田城、今ブームですからね。
実家から30分ほどですよ。
休日だと、あの辺、駐車場が少ないから車を止めるところがないかも知れません。小さな町ですから宿泊所も殆どないし。
でも、城のてっぺんは最高にいいですよ。
4回ほど上がったけどね、あの石垣の上に座ったら、まさに天空という感じがします。まだあそこで雲海を見たことはないですが、是非一度は見て見たい。

記述の訂正です

夏海 漁様 記述の訂正をするために再訪問いたしました。
書き方が拙くて誤解を呼び込む記述となりましたので、急ぎ、補足・訂正させてください。
あの辞世の句は天誅組に心酔していた父が、小生に父の自筆で書いた所感を、父の形見として小生が額に入れて飾っているだけのことなのです。
辞世の句の原物またはその写し物ではありませんので補足させていただきます。
誤解を生じるような記述の拙さに、身が縮む思いをしていますのでそれに免じてお赦しください。
なお辞世の句は前述の
♪君がため命死にきと世の人に語り継ぎてよ峰の松風♪
とされていますが、実際は
♪君が為め みまかりにきと 世の人に 語りつきてよ 峰の松風♪
であったようです。

  

ぶちょうほうどのへ

ぶちょうほうどの、こんばんは。
コメントの件、了解しました。
そんなことより、私の興味は奎堂さんと同郷である貴殿が
何か羨ましくもあり、驚きです。
そんな話し、機会があれば、おいおい聞かせてください。

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